果たして私は腕時計を付けて家を出る事ができるのか? [虚言/妄言]
出かける時に腕時計を左手に付ける。金属製なので結構ズッシリとくる。
そして携帯電話をポケットに入れ・・・。
ん?携帯電話があるのなら別に腕時計はいらないんじゃないのか?
ん、まあ、確かにその通りだ。携帯電話には時計の機能が内蔵されているし、何より私の待ち受け画面は開いた瞬間に一目で時間が分かるようにでかでかと時計が映っているから、基本的に時間を確認するのは携帯電話のみで腕時計を見る時は殆ど無い、というか全く無いと言っても良いだろう。
じゃあ別にわざわざそんな重い金属製の腕時計を付けなくてもいいんじゃないのか?もしかしてそれは見栄を張るために付けているのか?
そして携帯電話をポケットに入れ・・・。
ん?携帯電話があるのなら別に腕時計はいらないんじゃないのか?
ん、まあ、確かにその通りだ。携帯電話には時計の機能が内蔵されているし、何より私の待ち受け画面は開いた瞬間に一目で時間が分かるようにでかでかと時計が映っているから、基本的に時間を確認するのは携帯電話のみで腕時計を見る時は殆ど無い、というか全く無いと言っても良いだろう。
じゃあ別にわざわざそんな重い金属製の腕時計を付けなくてもいいんじゃないのか?もしかしてそれは見栄を張るために付けているのか?
幸福実現党の「幸福」とは [虚言/妄言]
幸福実現党というスゴイ政党がある(本当に存在するのか)。
詳しくは各人で調べて欲しいが、確か日本の人口を三億人にするみたいな事を言っていた気がする。別にどの政党がどの様な思想を持とうと構わないが、幸福実現党はその名を掲げている以上幸福を実現する事は永久に叶わないだろう。
幸福とは実現するモノではない。
幸福を「実現」する事によって掴もうとする人間は幸福になる事はできない。そもそも幸福を「実現する」「追求する」「掴む」という「自分の中にはないどこか、あるいはなにか」に幸福を求める事自体が幸福から人を遠ざけているのである。
詳しくは各人で調べて欲しいが、確か日本の人口を三億人にするみたいな事を言っていた気がする。別にどの政党がどの様な思想を持とうと構わないが、幸福実現党はその名を掲げている以上幸福を実現する事は永久に叶わないだろう。
幸福とは実現するモノではない。
幸福を「実現」する事によって掴もうとする人間は幸福になる事はできない。そもそも幸福を「実現する」「追求する」「掴む」という「自分の中にはないどこか、あるいはなにか」に幸福を求める事自体が幸福から人を遠ざけているのである。
人間ども集まれ! [虚言/妄言]
少し前の記事で「現代社会の人間は頭だけになってしまった。」という様な事を書いたが、最近読んだ著書の中でその事について的確に言い当てていた記述があったので紹介しておきたい。
「都会という環境は、きわめて人工的である。むしろ、人工的でないものを見せてもらいたい。そう言った方が早い。植え込みやら街路樹やら、みすぼらしい「自然物」が残されているが、それも人間が適当に「考えて」配置している。要するに都会では、すべては「脳の中」になってしまっている。建物しかり、道路しかり、建物の内部しかり。そこに住む人間は、早い話が、脳の中に住む人間である。
「都会という環境は、きわめて人工的である。むしろ、人工的でないものを見せてもらいたい。そう言った方が早い。植え込みやら街路樹やら、みすぼらしい「自然物」が残されているが、それも人間が適当に「考えて」配置している。要するに都会では、すべては「脳の中」になってしまっている。建物しかり、道路しかり、建物の内部しかり。そこに住む人間は、早い話が、脳の中に住む人間である。
金だー!金だー! [虚言/妄言]
何となくでもない、漠然としてもいない。誰に言われたからでもなく、ハッキリとして感じ取っているこの「気持ち悪さ」。
サブプライム問題からの一連の経済対策を人々はどう見ているのだろうか。どう感じているのだろうか。高速料金1000円やエコポイント、ハイブリットカーの購入への支援。さらには液晶普及政策なんてものまで。不景気である時に物価が下がり、または消費のための支援がなされるのは確かに理にかなっている。「消費していた当人」にとっては有り難い話である。
サブプライム問題からの一連の経済対策を人々はどう見ているのだろうか。どう感じているのだろうか。高速料金1000円やエコポイント、ハイブリットカーの購入への支援。さらには液晶普及政策なんてものまで。不景気である時に物価が下がり、または消費のための支援がなされるのは確かに理にかなっている。「消費していた当人」にとっては有り難い話である。
別に悪くはないが [虚言/妄言]
書き時を失って今更ではあるが気になったので。
どうやら、先日の「先生を流産させる会」の事件の報道について番組内で発言した勝谷氏が非難されていたらしい。
例の如く取り上げられているのは該当する部分だけなので前後の文脈を辿る事は出来ないが、記事によれば勝谷氏は「『流産させる会』というネーミングをつけなければ、 どこの学校でも多少ある。わざわざ騒ぎたてるほどのことでない」といった旨の発言をしたらしいのだが、何とも不可解な話である。
というのも私は勝谷氏の意見に賛成であるからだ。
どうやら、先日の「先生を流産させる会」の事件の報道について番組内で発言した勝谷氏が非難されていたらしい。
例の如く取り上げられているのは該当する部分だけなので前後の文脈を辿る事は出来ないが、記事によれば勝谷氏は「『流産させる会』というネーミングをつけなければ、 どこの学校でも多少ある。わざわざ騒ぎたてるほどのことでない」といった旨の発言をしたらしいのだが、何とも不可解な話である。
というのも私は勝谷氏の意見に賛成であるからだ。
あなたの命の価値は? [虚言/妄言]
先日、「先生を流産させる会」による事件の報道がなされていた。深夜のニュースで少しばかり放映されていたので大々的には扱われてはいないのかもしれないが、もし知らなければこの文章を読む前にググッて頂きたい。
私のような若造が命について語るのは烏滸がましいものではあるが、若造は若造なりに考えている事があるのでここに記しておきたい。なお、これは現時点での私の倫理観に基づくモノである。
事件の後、記者会見で校長が「生徒に命の重さを教えたい」的な発言をしていたのだが、結構な事である。私は出来ないと思うが。大体「教える事が出来る」のならそもそもこのような事件は起こらないはずである。
私のような若造が命について語るのは烏滸がましいものではあるが、若造は若造なりに考えている事があるのでここに記しておきたい。なお、これは現時点での私の倫理観に基づくモノである。
事件の後、記者会見で校長が「生徒に命の重さを教えたい」的な発言をしていたのだが、結構な事である。私は出来ないと思うが。大体「教える事が出来る」のならそもそもこのような事件は起こらないはずである。
ネタバレはそれほど警戒すべきなのか [虚言/妄言]
http://tekitounaotoko.blog4.fc2.com/blog-entry-482.html
このエントリではネタバレに関して幾つかの論点が挙げられているが、概ね同意できるモノもあれば出来ないモノもある。ただ、「無いに越した事はない」という事については共通して言える事だろう。
程度の差はあれど、ネタバレによって楽しみが減っている事は事実であり、ネタバレという言葉が認識される以前の問題として、マナーとしてネタバレは守られなければならない。まあ、要するに「空気読め」という事だ(これは世の常識も同じである)。
このエントリではネタバレに関して幾つかの論点が挙げられているが、概ね同意できるモノもあれば出来ないモノもある。ただ、「無いに越した事はない」という事については共通して言える事だろう。
程度の差はあれど、ネタバレによって楽しみが減っている事は事実であり、ネタバレという言葉が認識される以前の問題として、マナーとしてネタバレは守られなければならない。まあ、要するに「空気読め」という事だ(これは世の常識も同じである)。
戯言 [虚言/妄言]
「正しいモノ」は存在するのか
物事の正否が判断される場においてその判断は常に人間によってなされる
しかしその判断基準も常に当人の価値判断に基いている
詰まるところそれは「当人にとっての正否」でしかない
では「正しいモノ」は存在しないのか
ただの人間の幻想なのであろうか
だがちょっと待ってほしい
物事の正否が判断される場においてその判断は常に人間によってなされる
しかしその判断基準も常に当人の価値判断に基いている
詰まるところそれは「当人にとっての正否」でしかない
では「正しいモノ」は存在しないのか
ただの人間の幻想なのであろうか
だがちょっと待ってほしい
リテラシー [虚言/妄言]
ある本にこんな事が書いてあった。
「知識と経験は同じでなければならない。」
読んでいて思わず唸る。特に情報化社会である今日においては。
現代人は「身体」を失ったと言われているがその通りだろう。頭でっかちを超えて最早頭だけに成りつつある。自分の書いた記事を読み返してみるとそれが良く分かる。まあ、「言うは易し」であるから当然なのだが。
と、自虐的になったところで事態は好転するわけではないので、相も変わらず私には書くことしか出来ないワケで。私個人としては、自分の書いた文章についてはどうでもよく、それを読んだ人が僅かでも何らかの印象を抱き、またそれをどこかで表現してくれればそれで良いと思っている。
しかし、その抱いた印象の是非については一切責任は負えないが(爆)。
「知識と経験は同じでなければならない。」
読んでいて思わず唸る。特に情報化社会である今日においては。
現代人は「身体」を失ったと言われているがその通りだろう。頭でっかちを超えて最早頭だけに成りつつある。自分の書いた記事を読み返してみるとそれが良く分かる。まあ、「言うは易し」であるから当然なのだが。
と、自虐的になったところで事態は好転するわけではないので、相も変わらず私には書くことしか出来ないワケで。私個人としては、自分の書いた文章についてはどうでもよく、それを読んだ人が僅かでも何らかの印象を抱き、またそれをどこかで表現してくれればそれで良いと思っている。
しかし、その抱いた印象の是非については一切責任は負えないが(爆)。