『プリチャン』と『アイカツ』を取り合えず総括 [アニメ]
『スター☆トゥインクルプリキュア』が始まり『キラッとプリ☆チャン』と『アイカツフレンズ!』が2年目を迎えた。シリーズ16年目となる『プリキュアシリーズ』。『プリティーリズム』『プリパラ』『キラッとプリ☆チャン』と形を変えながらも一貫した作品として継続しているシリーズ8年目の『プリティーシリーズ』。『アイカツ!』『アイカツスターズ!』『アイカツフレンズ!』とそれぞれ独立した作品として生まれ変わりながら7年目となる『アイカツシリーズ』。この三者が顔を揃えるのも今年で7年目。
私は『アイカツ!』第68話(2014年2月6日放送)からこの3作品を観ているので今年で丁度5年目となる。月日が経つのは早いもので毎週3DCGのライブステージに関心しながら熱心に記事を書いていたのが今となっては懐かしい限りである。と書いてしまうと今後もう書く気が無いのかと言われそうだが正直な所最近はその情熱も冷めつつある。あの時の様に文章としてアウトプットしなければ収まらないような情動を感じさせるライブステージに出会う事も殆どなくなってしまったからだ。
7年も継続していれば3作品ともその形態は移り変わる。そもそも対象が女児向けのコンテンツである以上サイクルが早いのは当然であり日の目を見ないモノ、陰りを見せるモノは市場から淘汰される道を辿る。それはシリーズ16年目を迎える『プリキュアシリーズ』が今では作品毎のサイクルを完全に1年ペースで行っている事からも明らかである。
1年のサイクルで作品を完全に刷新させている『プリキュアシリーズ』、世界観を地続きにして異なる作品毎でも同じキャラクターや設定を継続して登場させる『プリティーシリーズ』、サイクルは異なれど作品毎に全てを完全に刷新する『アイカツシリーズ』。アニメ以外の玩具やアーケード筐体の動きも含め正に三者三様とも言えるその形態の移り変わりは見ていて中々面白いものだった。
また、作品が一新されれば当然監督も変わるもので特に『プリティーシリーズ』と『アイカツシリーズ』の監督交代による作風の変遷も興味深いものがあった。『プリキュアシリーズ』に関しては様式美、不文律とも言える部分が根幹に存在しているので監督が変わろうとも作品毎のテイストというのは実はそんなに違いは発生しないが他の2作品は手探りで進めている部分も多く作品毎にその方向性は大きく異なる。『プリティーリズム』『プリパラ』『キラッとプリ☆チャン』では菱田正和、森脇真琴、博史池畠。『アイカツ!』『アイカツスターズ!』『アイカツフレンズ!』では木村隆一、佐藤照雄、五十嵐達也とそれぞれ交代している監督の数も同じというのも面白い。
『プリティーシリーズ』は菱田正和と森脇真琴という強すぎる個性によって7年間続いたが『キラッとプリ☆チャン』からは博史池畠によってシリーズの顔とも言えるそのアクの強さは一旦リセットされる。キャラクターの性格や言動は抑えられ少年漫画的とも言えた対立構造に近いシリーズ構成は無くなり明確な問題解決や危機意識も無く描かれるのは日常生活が中心となった。アイドルがライブステージを行う事が作品の至上命題ではなくなり時代に合わせるかのようにYoutuber的な個人からの配信へとシフトした事によって、これまで存在していたキャラクター毎のパワーバランスという概念がほぼ消失する形となったのは大きな変化である。ただしこれによって劇中でアイドルがライブを行う事の必然性が無くなり『プリチャン』自体がライブステージに拘る、従来の歌って踊るアイドル像を主人公達が目指す理由が無くなるという構造上の問題点が浮き彫りにもなってしまったが。
そのため『キラッとプリ☆チャン』はYoutuber的な配信を中心とするプリチャンシステムによって弱肉強食のピラミッド構造だった従来のシリーズから競争を必要としない個人の活動へとパラダイムシフトを迎えたにも関わらず作品自体はアイドルがライブステージを行う事に縛られているというジレンマを抱えざるを得なくなっている。これはプリチャンというコンテンツ自体がそもそもライブステージを遊びの目的とするアーケード筐体を中心に展開されているから仕方の無い事なのだが。
『キラッとプリ☆チャン』のアニメは日常生活の中で配信する事を楽しむ事を主眼に描かれるが、このジレンマによって「ライブステージでトップアイドルを目指す」という目的意識のないまま何故か主人公たちがアイドルの格好をしてライブを行う事になり、従来のアイドル像は主人公達の日常生活における目標ではなくなった事によって物語全体が特に目的意識の無い散文的なものになるという問題を抱える事になる。従来の様にトップアイドルを目指して勝敗を競うという物語構造は確かに話としてはわかり易いが恐らくプリチャンは意識的にそこから脱却しようとしたのだろうとは思う。Youtuber的な配信をアニメで扱うという点は興味深いしそれによって物語の構造自体も従来に無い新しいものを生み出す事が出来るとも思う。
しかし1年目を終えた現時点で配信だからこそ生み出せた面白さや醍醐味という様なものが見出せたかと言うと残念ながら私には見えなかった。所々悪くは無い、面白いと言えるものはあったが配信という形式が面白さに直結する事は殆ど無かった。プリチャンという物語全体にしても配信という新しい要素を入れながらも結果として最終的にはアイドルのライブステージで雌雄を決するという従来と同じ形式に囚われる事となってしまった。『キラッとプリ☆チャン』のアニメがアーケード筐体に対してどの程度制作上の縛りがあるのかは分からないが、配信する事を取り上げた以上やはりそこから生まれるダイナミズムによってもたらされる面白さを求めてしまうものである。1年目は手探りで進めている印象が強く博史池畠もまだ監督としての経験を積んでいる途中だと思うが2年目ではVtuberが物語に大きく絡んでくる様子なのでこれから面白くなっていく事に期待したい。
一方の『アイカツシリーズ』。
こちらも『プリチャン』同様2018年からの新シリーズ『アイカツフレンズ!』は五十嵐達也が監督を務める新しい作品として生まれ変わった。従来の様に学校でアイドルとして養成されトップアイドルを目指して切磋琢磨する路線は継続つつも世界観や設定は一新され今作ではタイトルの通りフレンズ、つまり2人1組でのアイドル活動を中心に描かれるようになっている。本作については以前監督の五十嵐達也について言及しているので興味がある人は読んで頂ければ。
・『アイカツ!』第133話における五十嵐達也のコンテ・演出について。
・『アイカツフレンズ!』 の演出について
前作『アイカツスターズ!』については上記の記事に書いた様に私にとってあれは存在を否定したい、認めがたいモノであったため『アイカツ!』の演出でその頭角を現していた五十嵐達也が監督する『アイカツフレンズ!』には確かな希望を抱いていたのだが、結論から言えば本作もまた同じ轍を踏む運命を迎える事となってしまった。
思えば本作のスーパーバイザーに木村隆一の名前があった時点で気付いておくべきだったのかもしれない。『アイカツ!』のアニメ第1期がこれだけ支持を得ているのは当時スーパーバイザーを務めていた水島精二による手腕による所が大きいという事実はファンにとって今更説明する事ではないだろう。彼が抜けた後のシリーズはその残された遺産を切り崩して遣り繰りしていたため、後になればなるほど綻びが目立つ様になってしまったのは観ていた人なら分かる筈である。主人公が入れ替わり過去の遺産が使えなくなった『アイカツ!』第3期以降の第102話から178話は木村隆一が監督としての個人の資質が問われるシリーズでもあった。
新しい物語が紡がれる様というのはいつになっても新鮮なもので第3期の序盤、新たな主人公である大空あかりが同じアイドル仲間を集めトップアイドルを目指して修練に励む姿は最初の内こそ面白く観られたものだった。次々に登場する新しいキャラクター達によって紡がれる物語は星宮いちご達には無かった魅力と未来の可能性を予感させるものだった。3クール目までは。
先の過去記事にも書いたので繰り返しはしないがキャラクター主導の作品において物語が先行する事ほど悲惨なものは無い。最終的にメインキャラクターが8人となった第3期以降だがその描かれ方は第1期の頃とは大きく変化している。『アイカツシリーズ』は基本的にネガティブなキャラクターが存在せずその言動も前向きである事が多く、挫折や苦難に立ち向かいながら皆がトップアイドルを目指し互いに足をひっぱる様な事も無く常に支えあい協力し合う様に描かれている。
第1期の頃はそれを根幹に据え各キャラクターの個性で肉付けし物語で味付けしていくという構成が基本だった。先にキャラクターありきで物語はキャラクターの個性によって紡がれるものであり、物語はキャラクターを描く土台に過ぎないものだった。これはノスタルジーや贔屓目で見ているわけではなく第1期はその点でキャラクターの掛け合いが物凄く面白いので結果としてそれが物語自体の面白さに繋がっているという構造になっていたのである。
特に第1期2クール目までの頃は主人公達がトップアイドルを明確に目指している状態ではなく、アイドル養成学校で過ごす日常がメインに描かれているという物語全体の方向性や動機が固まっていない状態でありながらもキャラクターの掛け合いという動力源だけで面白さを表現できているのは驚嘆すべきという他無い。誇張抜きで第1期は未だに観返すくらい面白さに溢れている。
第2期になると主人公達が在籍する学校とは別にライバルのアイドル校が登場する事によってアイドル毎の対決要素が徐々に色濃くなるため初期の様な牧歌的な日常回は次第に少なくなっていく。と言ってもシリアスになる訳ではないが初期の頃の様にキャラクターの個性が物語を紡ぐ事は少なくなりトップアイドルを目指すという物語が先行する構造へとシフトする様になった。そして第2期のキャラクター達が卒業し一新された第3期は前述した事も含め初期の頃の様なキャラクターの個性が物語を紡ぐ形に戻りつつあったのだが、ここで水島精二無き『アイカツ!』における 木村隆一の手腕が問われる事となる。
『アイカツ!』の世界は常に優しい世界を描いている。そこにはネガティブなキャラクターや言動は無く皆が常にお互いの事を考えている。だがそれは人の言動が制限されるという事ではなくその優しい世界の中で競い、争い、笑い、ふざけ合いながらも時に不平不満や皮肉、愚痴を漏らしてしまうものでありキャラクター主導で描いてきた『アイカツ!』第1期はそこを真摯に描こうとしていたからこそ面白さに満ち溢れていたのである。アイドル活動は馴れ合いではない。そこを履き違えてしまったのが第3期以降である。
先のリンク先でも書いたが、第3期は2クール目までは新しい要素によって紡がれる物語の新鮮さからあまり気にならなかった点が3クール目から徐々に目立つ様になり先の「履き違えてしまった」部分が表に現れた事で、それ以降はキャラクターの描写が金太郎飴の如く何処をとっても同じという異様な状態が続くことになる。皆がお互いの事を常に認め合い否定しないため誰もが同じ表情をし、同じ言動を行い、同じ結論に達する。均質化した登場人物達が互いの個性から物語を生み出せる筈も無く、話が進むにつれキャラクター主導ではなく物語主導でキャラクターが描かれるようになっていく。その様は本当に異様なもので画一化、記号化された言動を繰り返すキャラクター達が紡ぐ物語はまるでタチの悪い人形劇の様だったのを今でも覚えている。均質化した言動を繰り返す以上キャラクターの成長など当然無くそこには停滞した物語だけがただただ無限に垂れ流されるのみである。
『アイカツシリーズ』も『プリティーシリーズ』同様アーケード筐体のプロモーション上による制約の多い作品である。本作だけを以って木村隆一の監督としての評価を断言する事は難しい。しかし『プリティーリズム』の菱田正和と『プリパラシリーズ』の森脇真琴の両名がそれぞれ3年間シリーズを担当し共に今もなお評価されているという事実をみると木村隆一に女児向けアニメ作品、もっと言えば長期シリーズを監督する能力があったかどうかは推して知るべしだとも言える。
では『アイカツフレンズ!』はどうなのか。
上記のリンク先の記事にある通り、本作については第11話『告白はドラマチック!』辺りまでは比較的気に入っていたのである。荒い部分や多少気になる部分もありつつも全体的に手堅い作りで好感が持てるので『アイカツ!』第1期には敵わないまでも本作なりの面白さは生み出せるだろうと。だがそうはならなかった。監督の五十嵐達也は個人的に好きな演出家だ。この人が演出、絵コンテを担当した回は基本的に面白い話が多くキャラクターの演出も興味深いものが多い。だから少なくとも監督としてキャラクターの演出についてはまともなものになるだろうとは思っていた。
しかし蓋を空けてみるとかつて五十嵐達也が『アイカツ!』で見せていた様なキャラクターの感情の機微は微塵も無く、そこには『アイカツ!』第3部以降で見た均質化したキャラクター達が紡ぐ人形劇がまた繰り広げられていたのである。おまけに『アイカツスターズ!』における最大の問題点であり失敗の元凶でもある「主人公だけが持ちうる特殊能力」が『アイカツフレンズ!』でも「アイカツゾーン」として再び登場し、不必要に物語をかき乱し混乱させるという同じ事を繰り返すにわかには信じがたい有様となっていた。何故こうなるのか。
アイカツゾーンがアーケード筐体に登場するのかは分からない。しかし視聴者からすれば現実的な世界観に根ざした日常生活を描く作品だと思っていた『アイカツフレンズ!』に突如選ばれたものだけに発現する「アイカツゾーン」と呼ばれる異能の力が登場するのだからたまったものではない。恐らくあれはアスリート選手等が体験する極度の集中状態であるゾーンをアイカツ世界にアレンジしたのだろうが、問題は肝心のアイカツゾーンについて碌に説明も無いまま途端にそれがアイカツフレンズという世界の中で当たり前に存在する事象であるかの様に扱われ物語が進行していく事である。一体あれは何だったのか。
『アイカツスターズ!』同様それが存在する事が一部の人間同士でしか認識されないのに物語上の核として突然扱われ視聴者、登場人物、物語の全てが突然出てきたたった一つの要素に振り回されるという異常な状態に置かれるその様は悪い冗談でしかない。『アイカツスターズ!』にしろ『アイカツフレンズ!』にしろあの異能の力が物語上どの様な意味があり、全体の構成の中でどういった役割を果たし、どの様な効果を生む事が出来たのかを誰か説明してもらえないだろうか。理性的、論理的にアレが意味のあるものだったと誰か説明してくれ。私には無理だ。
結局アイカツゾーンは主人公とトップアイドルのラブミーティアのみに発現し、その効果はおそらくライブステージのパフォーマンスを向上させるのだろうという理解を視聴者の手に委ね、論理的な説明は一切放棄される。そして物語の後半はトップアイドルに君臨するラブミーティアを超えるという従来のピラミッド型の対決構造へとシフトしていく。前述したキャラクターの個性の点については相変わらずで皆がお互いを常に褒め称え認め合いその関係性が殆ど変化しないまま物語だけが先へ先へと進んでいくので「変わらない物語」が延々と続いていく様が常態化してしまうのである。そして変わらないどころか既に解決している、乗り越えている問題や危機意識が何度も登場するのでその度に登場人物の成長がリセットされあたかもその問題解決によって前に進んでいるかの様な堂々巡りにも陥っている。そうして主人公達の碌な積み上げも無い中で同じく完全に描写が不足しているトップアイドルのラブミーティアは消化試合の如く第42話という速さでその座を明け渡す事となる。何の感慨も無い。
『アイカツフレンズ!』はラブミーティアを超える事が目的化した物語だ。私が見たかったのはそこではなかった。彼女らがトップアイドルという未だ見ぬ境地を目指して奮闘するその生き様が見たかったのだ。『アイカツ!』の星宮いちごが神埼美月に憧れたのはトップアイドルだからだろうか?いやそうではない。トップアイドルである神埼美月もまた自ら追い求める憧れを抱いていたのであり、だからこそそれを感じ取った星宮いちごはその背中を追いかけたのではなかったか。
『アイカツフレンズ!』における設定やキャラクターの言動等の脚本上の整合性や問題点は山ほどあるが今はそこには目を瞑ろう。本当の問題はそういったものではない。自ら選択しその道を進んでいく生き様、それがあるかないかである。それはキャラクターの個性から物語を紡ぐ事と同義である。『プリキュアシリーズ』は言わずもがな『プリティーリズム』『プリパラ』そして『アイカツ!』第1期第2期はその点だけは常に一貫していた(面白かったかどうかはともかく)。では『アイカツフレンズ!』が1年目を終えた今振り返ってみて本作で一貫していたものが何かあっただろうか。そう一つだけある。「トモダチカラ」だ。
主人公友希あいねは目指せ友達100万人を合言葉に日々アイカツに励んでいた。ライバルもトップアイドルもカードも友達。人との繋がりがあいねの力となりアイドル活動を後押しする。だがそれが物語上体の良い常套句以上の役割を果たす事があっただろうか。結局友達になる事そのもの、ライバルと友達になるその意味等は深く追求されず増やした友達というのは最終的に単に数が増えた事実以上の意味を持たなかった。第42話でトップアイドルに上り詰めた友希あいね達が第50話までの残された時間で一体何を成し遂げたか見ていた人は覚えているだろうか。そこに『アイカツフレンズ』であった意義を見出すほどのものがあったか、トップアイドルが早々に退場した意味はあったのか、友達を作るという命題が本作においてどの様な意義を持っていたか果たして示されたのか。理性的、論理的に語る事が出来る人がいるなら教えて欲しい。私には無理だ。
子供向けと子供騙しは違うという言葉がある。『アイカツ!』第1期は間違いなく子供向けの作品だが子供騙しではないという点で私は老若男女に勧められる作品だと胸を張って言いたい。では『アイカツフレンズ!』は子供騙しの作品なのか。制作に携わる人間が不真面目だったり不誠実でいい加減なのかというとそれは違うだろう。本作の場合制作側にアイドルに興味を持っている人間が少なかった事が原因なのではないかと思う。『アイカツ!』のスーパーバイザーを努めた水島精二は幾つものアイドルのライブに実際に観に行くくらいのアイドル好きだ。『アイカツ!』がアイドルモノとしても抜群に面白いのは間違いなく水島精二の功績が大きいのだろう。むべなるかな、その水島精二が抜け、木村隆一が裏方に回った本作が一本のアニメとしてもアイドルモノとしても面白さに欠けてしまったのは必然とも言えるのではないか。
五十嵐達也が監督になった事で演出面には期待していたのだが彼が全50話の中で演出なりコンテに携わったのは数えるほどしかない。そもそもかつて確かに存在していた五十嵐達也らしさと言っていいあの繊細な演出は『アイカツフレンズ!』になってからというもの第1話以降全く感じられなくなってしまったのだが、もしかしたら五十嵐達也は監督として作品を上手くコントロール出来てなかったのかもしれない。何故なら『アイカツフレンズ!』は『アイカツ!』第4期の頃と全ての悪い点において作風が驚くほど良く似ているからだ。だがそれもいずれ分かるのだろう。4月からは五十嵐達也が引き続き監督を務める『アイカツフレンズ!』の第2期が始まるのだから。ただ、正直もう私には『アイカツ!』への興味が殆ど残っていない。『アイカツフレンズ!』も後半は完全に惰性で観ていただけで第2期も全く期待はしていない。でもきっと観続けるのだろう。いつか面白くなると信じて祈り続けたあの悪名高き『アイカツスターズ!』の様に。
続き『アイカツ』よ、さらば。
アニメCG関連過去記事
アイカツ!
・「アイカツ!」第71話 霧矢あおい「prism spiral」にみる振り付け。
・「アイカツ!」アニメ3期における3DCGライブ演出の展望。
・「アイカツ!」第103話 氷上スミレ「タルト・タタン」での3DCGライブ演出。
・「アイカツ!」アニメ3期の3DCGモデルに見られる変化
・『アイカツ!』第118話 藤原みやび「薄紅デイトリッパー」の3DCGライブ演出
・『アイカツ!』第123話 大空あかり「Blooming♡Blooming」の3DCGライブ演出
・『アイカツ!』第124話 北大路さくら「Blooming♡Blooming」のセルルック表現
・『アイカツ!』第160話の3DCGライブステージにおける変化について
・『アイカツスターズ!』の3DCGダンスアニメーションについて。
・『アイカツフレンズ!』 第7話 明日香ミライ「アイデンティティ」3DCGライブ演出
プリパラ
・「プリパラ」における3DCGのライブステージ演出。part.1
・「プリパラ」における3DCGのライブステージ演出。part.2
・「プリパラ」第22話「HAPPYぱLUCKY」におけるライブステージ演出。
アイドルタイムプリパラ
・『アイドルタイムプリパラ』にみる3DCGモデルの変化・変遷
私は『アイカツ!』第68話(2014年2月6日放送)からこの3作品を観ているので今年で丁度5年目となる。月日が経つのは早いもので毎週3DCGのライブステージに関心しながら熱心に記事を書いていたのが今となっては懐かしい限りである。と書いてしまうと今後もう書く気が無いのかと言われそうだが正直な所最近はその情熱も冷めつつある。あの時の様に文章としてアウトプットしなければ収まらないような情動を感じさせるライブステージに出会う事も殆どなくなってしまったからだ。
7年も継続していれば3作品ともその形態は移り変わる。そもそも対象が女児向けのコンテンツである以上サイクルが早いのは当然であり日の目を見ないモノ、陰りを見せるモノは市場から淘汰される道を辿る。それはシリーズ16年目を迎える『プリキュアシリーズ』が今では作品毎のサイクルを完全に1年ペースで行っている事からも明らかである。
1年のサイクルで作品を完全に刷新させている『プリキュアシリーズ』、世界観を地続きにして異なる作品毎でも同じキャラクターや設定を継続して登場させる『プリティーシリーズ』、サイクルは異なれど作品毎に全てを完全に刷新する『アイカツシリーズ』。アニメ以外の玩具やアーケード筐体の動きも含め正に三者三様とも言えるその形態の移り変わりは見ていて中々面白いものだった。
また、作品が一新されれば当然監督も変わるもので特に『プリティーシリーズ』と『アイカツシリーズ』の監督交代による作風の変遷も興味深いものがあった。『プリキュアシリーズ』に関しては様式美、不文律とも言える部分が根幹に存在しているので監督が変わろうとも作品毎のテイストというのは実はそんなに違いは発生しないが他の2作品は手探りで進めている部分も多く作品毎にその方向性は大きく異なる。『プリティーリズム』『プリパラ』『キラッとプリ☆チャン』では菱田正和、森脇真琴、博史池畠。『アイカツ!』『アイカツスターズ!』『アイカツフレンズ!』では木村隆一、佐藤照雄、五十嵐達也とそれぞれ交代している監督の数も同じというのも面白い。
『プリティーシリーズ』は菱田正和と森脇真琴という強すぎる個性によって7年間続いたが『キラッとプリ☆チャン』からは博史池畠によってシリーズの顔とも言えるそのアクの強さは一旦リセットされる。キャラクターの性格や言動は抑えられ少年漫画的とも言えた対立構造に近いシリーズ構成は無くなり明確な問題解決や危機意識も無く描かれるのは日常生活が中心となった。アイドルがライブステージを行う事が作品の至上命題ではなくなり時代に合わせるかのようにYoutuber的な個人からの配信へとシフトした事によって、これまで存在していたキャラクター毎のパワーバランスという概念がほぼ消失する形となったのは大きな変化である。ただしこれによって劇中でアイドルがライブを行う事の必然性が無くなり『プリチャン』自体がライブステージに拘る、従来の歌って踊るアイドル像を主人公達が目指す理由が無くなるという構造上の問題点が浮き彫りにもなってしまったが。
そのため『キラッとプリ☆チャン』はYoutuber的な配信を中心とするプリチャンシステムによって弱肉強食のピラミッド構造だった従来のシリーズから競争を必要としない個人の活動へとパラダイムシフトを迎えたにも関わらず作品自体はアイドルがライブステージを行う事に縛られているというジレンマを抱えざるを得なくなっている。これはプリチャンというコンテンツ自体がそもそもライブステージを遊びの目的とするアーケード筐体を中心に展開されているから仕方の無い事なのだが。
『キラッとプリ☆チャン』のアニメは日常生活の中で配信する事を楽しむ事を主眼に描かれるが、このジレンマによって「ライブステージでトップアイドルを目指す」という目的意識のないまま何故か主人公たちがアイドルの格好をしてライブを行う事になり、従来のアイドル像は主人公達の日常生活における目標ではなくなった事によって物語全体が特に目的意識の無い散文的なものになるという問題を抱える事になる。従来の様にトップアイドルを目指して勝敗を競うという物語構造は確かに話としてはわかり易いが恐らくプリチャンは意識的にそこから脱却しようとしたのだろうとは思う。Youtuber的な配信をアニメで扱うという点は興味深いしそれによって物語の構造自体も従来に無い新しいものを生み出す事が出来るとも思う。
しかし1年目を終えた現時点で配信だからこそ生み出せた面白さや醍醐味という様なものが見出せたかと言うと残念ながら私には見えなかった。所々悪くは無い、面白いと言えるものはあったが配信という形式が面白さに直結する事は殆ど無かった。プリチャンという物語全体にしても配信という新しい要素を入れながらも結果として最終的にはアイドルのライブステージで雌雄を決するという従来と同じ形式に囚われる事となってしまった。『キラッとプリ☆チャン』のアニメがアーケード筐体に対してどの程度制作上の縛りがあるのかは分からないが、配信する事を取り上げた以上やはりそこから生まれるダイナミズムによってもたらされる面白さを求めてしまうものである。1年目は手探りで進めている印象が強く博史池畠もまだ監督としての経験を積んでいる途中だと思うが2年目ではVtuberが物語に大きく絡んでくる様子なのでこれから面白くなっていく事に期待したい。
一方の『アイカツシリーズ』。
こちらも『プリチャン』同様2018年からの新シリーズ『アイカツフレンズ!』は五十嵐達也が監督を務める新しい作品として生まれ変わった。従来の様に学校でアイドルとして養成されトップアイドルを目指して切磋琢磨する路線は継続つつも世界観や設定は一新され今作ではタイトルの通りフレンズ、つまり2人1組でのアイドル活動を中心に描かれるようになっている。本作については以前監督の五十嵐達也について言及しているので興味がある人は読んで頂ければ。
・『アイカツ!』第133話における五十嵐達也のコンテ・演出について。
・『アイカツフレンズ!』 の演出について
前作『アイカツスターズ!』については上記の記事に書いた様に私にとってあれは存在を否定したい、認めがたいモノであったため『アイカツ!』の演出でその頭角を現していた五十嵐達也が監督する『アイカツフレンズ!』には確かな希望を抱いていたのだが、結論から言えば本作もまた同じ轍を踏む運命を迎える事となってしまった。
思えば本作のスーパーバイザーに木村隆一の名前があった時点で気付いておくべきだったのかもしれない。『アイカツ!』のアニメ第1期がこれだけ支持を得ているのは当時スーパーバイザーを務めていた水島精二による手腕による所が大きいという事実はファンにとって今更説明する事ではないだろう。彼が抜けた後のシリーズはその残された遺産を切り崩して遣り繰りしていたため、後になればなるほど綻びが目立つ様になってしまったのは観ていた人なら分かる筈である。主人公が入れ替わり過去の遺産が使えなくなった『アイカツ!』第3期以降の第102話から178話は木村隆一が監督としての個人の資質が問われるシリーズでもあった。
新しい物語が紡がれる様というのはいつになっても新鮮なもので第3期の序盤、新たな主人公である大空あかりが同じアイドル仲間を集めトップアイドルを目指して修練に励む姿は最初の内こそ面白く観られたものだった。次々に登場する新しいキャラクター達によって紡がれる物語は星宮いちご達には無かった魅力と未来の可能性を予感させるものだった。3クール目までは。
先の過去記事にも書いたので繰り返しはしないがキャラクター主導の作品において物語が先行する事ほど悲惨なものは無い。最終的にメインキャラクターが8人となった第3期以降だがその描かれ方は第1期の頃とは大きく変化している。『アイカツシリーズ』は基本的にネガティブなキャラクターが存在せずその言動も前向きである事が多く、挫折や苦難に立ち向かいながら皆がトップアイドルを目指し互いに足をひっぱる様な事も無く常に支えあい協力し合う様に描かれている。
第1期の頃はそれを根幹に据え各キャラクターの個性で肉付けし物語で味付けしていくという構成が基本だった。先にキャラクターありきで物語はキャラクターの個性によって紡がれるものであり、物語はキャラクターを描く土台に過ぎないものだった。これはノスタルジーや贔屓目で見ているわけではなく第1期はその点でキャラクターの掛け合いが物凄く面白いので結果としてそれが物語自体の面白さに繋がっているという構造になっていたのである。
特に第1期2クール目までの頃は主人公達がトップアイドルを明確に目指している状態ではなく、アイドル養成学校で過ごす日常がメインに描かれているという物語全体の方向性や動機が固まっていない状態でありながらもキャラクターの掛け合いという動力源だけで面白さを表現できているのは驚嘆すべきという他無い。誇張抜きで第1期は未だに観返すくらい面白さに溢れている。
第2期になると主人公達が在籍する学校とは別にライバルのアイドル校が登場する事によってアイドル毎の対決要素が徐々に色濃くなるため初期の様な牧歌的な日常回は次第に少なくなっていく。と言ってもシリアスになる訳ではないが初期の頃の様にキャラクターの個性が物語を紡ぐ事は少なくなりトップアイドルを目指すという物語が先行する構造へとシフトする様になった。そして第2期のキャラクター達が卒業し一新された第3期は前述した事も含め初期の頃の様なキャラクターの個性が物語を紡ぐ形に戻りつつあったのだが、ここで水島精二無き『アイカツ!』における 木村隆一の手腕が問われる事となる。
『アイカツ!』の世界は常に優しい世界を描いている。そこにはネガティブなキャラクターや言動は無く皆が常にお互いの事を考えている。だがそれは人の言動が制限されるという事ではなくその優しい世界の中で競い、争い、笑い、ふざけ合いながらも時に不平不満や皮肉、愚痴を漏らしてしまうものでありキャラクター主導で描いてきた『アイカツ!』第1期はそこを真摯に描こうとしていたからこそ面白さに満ち溢れていたのである。アイドル活動は馴れ合いではない。そこを履き違えてしまったのが第3期以降である。
先のリンク先でも書いたが、第3期は2クール目までは新しい要素によって紡がれる物語の新鮮さからあまり気にならなかった点が3クール目から徐々に目立つ様になり先の「履き違えてしまった」部分が表に現れた事で、それ以降はキャラクターの描写が金太郎飴の如く何処をとっても同じという異様な状態が続くことになる。皆がお互いの事を常に認め合い否定しないため誰もが同じ表情をし、同じ言動を行い、同じ結論に達する。均質化した登場人物達が互いの個性から物語を生み出せる筈も無く、話が進むにつれキャラクター主導ではなく物語主導でキャラクターが描かれるようになっていく。その様は本当に異様なもので画一化、記号化された言動を繰り返すキャラクター達が紡ぐ物語はまるでタチの悪い人形劇の様だったのを今でも覚えている。均質化した言動を繰り返す以上キャラクターの成長など当然無くそこには停滞した物語だけがただただ無限に垂れ流されるのみである。
『アイカツシリーズ』も『プリティーシリーズ』同様アーケード筐体のプロモーション上による制約の多い作品である。本作だけを以って木村隆一の監督としての評価を断言する事は難しい。しかし『プリティーリズム』の菱田正和と『プリパラシリーズ』の森脇真琴の両名がそれぞれ3年間シリーズを担当し共に今もなお評価されているという事実をみると木村隆一に女児向けアニメ作品、もっと言えば長期シリーズを監督する能力があったかどうかは推して知るべしだとも言える。
では『アイカツフレンズ!』はどうなのか。
上記のリンク先の記事にある通り、本作については第11話『告白はドラマチック!』辺りまでは比較的気に入っていたのである。荒い部分や多少気になる部分もありつつも全体的に手堅い作りで好感が持てるので『アイカツ!』第1期には敵わないまでも本作なりの面白さは生み出せるだろうと。だがそうはならなかった。監督の五十嵐達也は個人的に好きな演出家だ。この人が演出、絵コンテを担当した回は基本的に面白い話が多くキャラクターの演出も興味深いものが多い。だから少なくとも監督としてキャラクターの演出についてはまともなものになるだろうとは思っていた。
しかし蓋を空けてみるとかつて五十嵐達也が『アイカツ!』で見せていた様なキャラクターの感情の機微は微塵も無く、そこには『アイカツ!』第3部以降で見た均質化したキャラクター達が紡ぐ人形劇がまた繰り広げられていたのである。おまけに『アイカツスターズ!』における最大の問題点であり失敗の元凶でもある「主人公だけが持ちうる特殊能力」が『アイカツフレンズ!』でも「アイカツゾーン」として再び登場し、不必要に物語をかき乱し混乱させるという同じ事を繰り返すにわかには信じがたい有様となっていた。何故こうなるのか。
アイカツゾーンがアーケード筐体に登場するのかは分からない。しかし視聴者からすれば現実的な世界観に根ざした日常生活を描く作品だと思っていた『アイカツフレンズ!』に突如選ばれたものだけに発現する「アイカツゾーン」と呼ばれる異能の力が登場するのだからたまったものではない。恐らくあれはアスリート選手等が体験する極度の集中状態であるゾーンをアイカツ世界にアレンジしたのだろうが、問題は肝心のアイカツゾーンについて碌に説明も無いまま途端にそれがアイカツフレンズという世界の中で当たり前に存在する事象であるかの様に扱われ物語が進行していく事である。一体あれは何だったのか。
『アイカツスターズ!』同様それが存在する事が一部の人間同士でしか認識されないのに物語上の核として突然扱われ視聴者、登場人物、物語の全てが突然出てきたたった一つの要素に振り回されるという異常な状態に置かれるその様は悪い冗談でしかない。『アイカツスターズ!』にしろ『アイカツフレンズ!』にしろあの異能の力が物語上どの様な意味があり、全体の構成の中でどういった役割を果たし、どの様な効果を生む事が出来たのかを誰か説明してもらえないだろうか。理性的、論理的にアレが意味のあるものだったと誰か説明してくれ。私には無理だ。
結局アイカツゾーンは主人公とトップアイドルのラブミーティアのみに発現し、その効果はおそらくライブステージのパフォーマンスを向上させるのだろうという理解を視聴者の手に委ね、論理的な説明は一切放棄される。そして物語の後半はトップアイドルに君臨するラブミーティアを超えるという従来のピラミッド型の対決構造へとシフトしていく。前述したキャラクターの個性の点については相変わらずで皆がお互いを常に褒め称え認め合いその関係性が殆ど変化しないまま物語だけが先へ先へと進んでいくので「変わらない物語」が延々と続いていく様が常態化してしまうのである。そして変わらないどころか既に解決している、乗り越えている問題や危機意識が何度も登場するのでその度に登場人物の成長がリセットされあたかもその問題解決によって前に進んでいるかの様な堂々巡りにも陥っている。そうして主人公達の碌な積み上げも無い中で同じく完全に描写が不足しているトップアイドルのラブミーティアは消化試合の如く第42話という速さでその座を明け渡す事となる。何の感慨も無い。
『アイカツフレンズ!』はラブミーティアを超える事が目的化した物語だ。私が見たかったのはそこではなかった。彼女らがトップアイドルという未だ見ぬ境地を目指して奮闘するその生き様が見たかったのだ。『アイカツ!』の星宮いちごが神埼美月に憧れたのはトップアイドルだからだろうか?いやそうではない。トップアイドルである神埼美月もまた自ら追い求める憧れを抱いていたのであり、だからこそそれを感じ取った星宮いちごはその背中を追いかけたのではなかったか。
『アイカツフレンズ!』における設定やキャラクターの言動等の脚本上の整合性や問題点は山ほどあるが今はそこには目を瞑ろう。本当の問題はそういったものではない。自ら選択しその道を進んでいく生き様、それがあるかないかである。それはキャラクターの個性から物語を紡ぐ事と同義である。『プリキュアシリーズ』は言わずもがな『プリティーリズム』『プリパラ』そして『アイカツ!』第1期第2期はその点だけは常に一貫していた(面白かったかどうかはともかく)。では『アイカツフレンズ!』が1年目を終えた今振り返ってみて本作で一貫していたものが何かあっただろうか。そう一つだけある。「トモダチカラ」だ。
主人公友希あいねは目指せ友達100万人を合言葉に日々アイカツに励んでいた。ライバルもトップアイドルもカードも友達。人との繋がりがあいねの力となりアイドル活動を後押しする。だがそれが物語上体の良い常套句以上の役割を果たす事があっただろうか。結局友達になる事そのもの、ライバルと友達になるその意味等は深く追求されず増やした友達というのは最終的に単に数が増えた事実以上の意味を持たなかった。第42話でトップアイドルに上り詰めた友希あいね達が第50話までの残された時間で一体何を成し遂げたか見ていた人は覚えているだろうか。そこに『アイカツフレンズ』であった意義を見出すほどのものがあったか、トップアイドルが早々に退場した意味はあったのか、友達を作るという命題が本作においてどの様な意義を持っていたか果たして示されたのか。理性的、論理的に語る事が出来る人がいるなら教えて欲しい。私には無理だ。
子供向けと子供騙しは違うという言葉がある。『アイカツ!』第1期は間違いなく子供向けの作品だが子供騙しではないという点で私は老若男女に勧められる作品だと胸を張って言いたい。では『アイカツフレンズ!』は子供騙しの作品なのか。制作に携わる人間が不真面目だったり不誠実でいい加減なのかというとそれは違うだろう。本作の場合制作側にアイドルに興味を持っている人間が少なかった事が原因なのではないかと思う。『アイカツ!』のスーパーバイザーを努めた水島精二は幾つものアイドルのライブに実際に観に行くくらいのアイドル好きだ。『アイカツ!』がアイドルモノとしても抜群に面白いのは間違いなく水島精二の功績が大きいのだろう。むべなるかな、その水島精二が抜け、木村隆一が裏方に回った本作が一本のアニメとしてもアイドルモノとしても面白さに欠けてしまったのは必然とも言えるのではないか。
五十嵐達也が監督になった事で演出面には期待していたのだが彼が全50話の中で演出なりコンテに携わったのは数えるほどしかない。そもそもかつて確かに存在していた五十嵐達也らしさと言っていいあの繊細な演出は『アイカツフレンズ!』になってからというもの第1話以降全く感じられなくなってしまったのだが、もしかしたら五十嵐達也は監督として作品を上手くコントロール出来てなかったのかもしれない。何故なら『アイカツフレンズ!』は『アイカツ!』第4期の頃と全ての悪い点において作風が驚くほど良く似ているからだ。だがそれもいずれ分かるのだろう。4月からは五十嵐達也が引き続き監督を務める『アイカツフレンズ!』の第2期が始まるのだから。ただ、正直もう私には『アイカツ!』への興味が殆ど残っていない。『アイカツフレンズ!』も後半は完全に惰性で観ていただけで第2期も全く期待はしていない。でもきっと観続けるのだろう。いつか面白くなると信じて祈り続けたあの悪名高き『アイカツスターズ!』の様に。
続き『アイカツ』よ、さらば。
アニメCG関連過去記事
アイカツ!
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コメント失礼します。
KING OF PRISMというシリーズはご存知でしょうか?
プリティーリズムレインボーライブのスピンオフ作品で、菱田正和さんが監督をされています。
現在テレビシリーズが放映されているのですがストーリーの展開やCGがとても素晴らしく、ぜひお時間のある時に見てみて頂きたいです。ネット配信もあります。
テレビシリーズは一話完結方式で新規キャラクターの掘り下げがメインのため途中から視聴してもある程度理解できるのではないかと思います。
既にチェック済みでしたらすみません。
by 石村 (2019-05-09 19:13)
>>石村さん
もちろん存じています!
応援上映の代名詞とも言える位有名ですからね。とは言っても未だ観た事はありませんが(汗)。TVシリーズも一応録画はしておりまして、まずは最初の劇場版から観ていこうかなと思っている次第です。
近年は女性、男性アイドルアニメが共に豊作でとても全てはチェック出来ませんが、キンプリは菱田監督作品ですので何とか時間を作って観ていきたいですね。
by smith (2019-05-10 19:43)