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あなたの命の価値は? [虚言/妄言]

先日、「先生を流産させる会」による事件の報道がなされていた。深夜のニュースで少しばかり放映されていたので大々的には扱われてはいないのかもしれないが、もし知らなければこの文章を読む前にググッて頂きたい。

私のような若造が命について語るのは烏滸がましいものではあるが、若造は若造なりに考えている事があるのでここに記しておきたい。なお、これは現時点での私の倫理観に基づくモノである。

事件の後、記者会見で校長が「生徒に命の重さを教えたい」的な発言をしていたのだが、結構な事である。私は出来ないと思うが。大体「教える事が出来る」のならそもそもこのような事件は起こらないはずである。

私は「命は尊い」と言う人間が嫌いだ。
「命は重い」「平等である」「価値ある命」なども同じだ。反吐が出るし、人間性を疑う。

私に言わせれば命なんてものはゴミに等しい。文字通りゴミの様に消えてしまうものである。それも大量に。価値など無いし、平等ではない。そんなモノは幻想である。価値があるとすればそれは「有用性」に他ならない。

「平等」などと言う言葉も夢のまた夢である。出生や外見の違いによる差別は未だに続いているのであり、日本も例外では無い事は周知の事実だ。また人間同士に限らず、人類と他の生物種とを比較して人類(ホモサピエンス)の優位性を主張している度し難い輩も相変わらず存在している。

「戯言」のエントリでも書いたが、モノの評価などというのは絶対的ではありえず、またそれは人間に固有の現象であるため、ましてやそれを「生命」に当てはめて論ずるのは見当違いである。

では、私が考える「命」とは何なのか。
それは「代替不可能で絶対的な儚いモノ」である。

命は脆い。儚い。
それは人間に限らずあらゆる生命に言える事であり、だからこそ私達は失われていく生命を憂い、慈しみ、守ろうとする。そこには「代替不可能性」が存在し、私達は無意識の内にそれを感じとっている。そして、その「代替不可能性」を感じ取る事によって失った時の悲しみを想像し、恐れ、大切に扱う心を自らの中に育むのである。

その時初めて己の中に「命の大切さ」を見出す事ができ、価値が形成され、同時にそれが絶対的である事に気付くのである。そのため、「代替不可能性」を知らない幼児期、幼少期の子供は簡単にモノの命を奪う事が出来る。彼らにとってはそれは最早「命」ですらないからだろう。

「命の価値」や「大切さ」というモノは個人に絶対的であり、対外的に論じられるべきではない。「命の歴史」は人それぞれであり価値基準は違って当然だからである。だから、そんなものは当然「教える事」が出来ない筈である。

そのため、それらを教える手段としては「豚を生徒に育てさせ最後に処分の手を委ねる」といった原始的かつ根元的な手段によって主体に感じ取らせるしか無いと私は思っている。

おそらく、この事件の当事者である生徒に「命」を知ってもらうにはかなりの時間がかかるだろう。己の不快と胎児の命が等価であると思いこんでいる限り、「命」に触れる事は出来ない。
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