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美徳 [日記]

11月25日放送の「ガイアの夜明け」で面白いやりとりが映っていた。

内容としては、いわゆる「昨今の大手スーパーによって窮地に立たされている農家の苦悩と対策」という中での青森のあるリンゴ農家の対応である。詳細は覚えていないが、なにやら今年の青森では殆どのリンゴがキズモノになってしまったらしく売り物にならないそうだ。本来なら150円程で販売できるはずなのに、限られるキズモノでの販売方法であるジュース用等では30円程度になってしまうらしい。

そんな中、取材先の農家では何とかして別の販売方法で収入の目処を付けたいという事らしく、リンゴを乾燥させる機械を購入してその乾燥させたモノを洋菓子店に売り込みにいったのだが、そこで店主と農家の人の間で交わされた会話の中でこんな言葉が出てきた。

「リンゴも喜びますよ。」

なるほど。
日本では古来からアニミズムとしての万物に魂が宿るとする「八百万の神」という考え方が土着信仰として根付いていたが(残念ながら昨今では希薄か)、これもその一つだろう。

しかし、私はこの言葉を聞いた時は違和感があった。というのも上記の発言にはリンゴにさも感情があるかのような表現をしているからだ。

確かに私達日本人は一般的な「生物」以外のモノである「植物」「物」などに対しても、まるで魂が宿っているかのような感覚を持つ事はできる。木や石、人形などが良い例だ。

だが、そういったモノは大抵こちら側から「モノ」に対して何らかの感情が流れ込んでいる場合に感じるのであり(感じざるを得ない)、そうでない普段大量に消費している物等に対してそういった感覚を持つ事は殆ど無い。

なればこその「リンゴ」である。
食する物に対して生命を感じる事はあっても、感情を感じるなどという事は考えた事が無かった。リンゴの木に対しては感情を感じる事はあっても、だ。

最近流行っている「調理の際に出た野菜の使わない部分で作った料理」に対して「野菜が喜んでいる」と感じるだろうか。昨日の余りもので、水を浸して油で揚げるとサクサク感がよみがえる天ぷらに「天ぷらが喜んでいる」と感じるだろうか。

分からなくはないが少なくとも私は感覚的にはあまり馴染まない。

しかし、人間というモノは面白いものでその環境によって感覚は大きく変化するのである。民族単位で見た時に自然に対する感受性が高い日本人が一般的に虫に関する見識があるように、その大半を雪の中で過ごしているエスキモーとっては雪の種類が何十とあるように。

おそらく上記の農家の人も同じ事なのだろう。自ら植え、育て、生み出されてくるリンゴに生命を、生き物としてのリンゴをありありと感じる事が出来る。それはおそらく私達が普段モノに対して感じている感覚と何ら変わるものではないだろう。

アメリカでは基本的に農業に関しては企業が外部から人を雇うという給料制で行われており(確かそうだった)、そこでは完全な機械制による大規模かつ大量な農作物が明らかに「物」として扱われている。直径何百mという円形の農場が幾つも並んでいる写真を見た事がある人は多いだろう。

藤原正彦氏もその著書で述べていたが、ああいうのを見ていると日本人特有の自然への感受性やもののあわれといった感覚を持っている事に誇りを感じざるを得ない。

結局それが言いたいだけだったのだが(爆)。
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