SSブログ

Let`s action!! vol.1.2 [ゲーム]

最近ヘッドホンを新調したので(Pioneer SE-M390)音質の確認として過去のDVDを掘り起こして観ていたのだが、DMC1のトレーラーを観ていてある違和感を感じる。

「あれ?2・3よりも観ていて気持ち良いな…。」

過去の記事でも「アクションゲームにおける気持ちよさ」に関して幾つかの考察をしているためか、アクションゲームの映像を観るとついつい反射的に考察を行ってしまうので今回も例によって色々と思いを巡らせていたのだが、DMC1だけでなく他の作品も観ていてある確信を得るに至った。それは、「破壊のカタルシス」である。

人が破壊においてカタルシスを感じるのは何故か。原理的・精神的な面においては恐らく古代の哲学者等が結論を出しているだろうが、今日の3Dアクションゲームにおいて破壊のカタルシスは主に受け手のリアクションの有無によって左右されている。

爆発した時の物の欠損・飛散・爆散・衝撃波、敵を攻撃した時の部分欠損・血しぶき。行った攻撃に対して画面上で何らかの破壊のリアクションが行われる事によって、プレーヤーは初めてカタルシスを感じる事が出来る。そしてそれはプレーヤーのゲームに対する没入感において大きな地位を占めている。

近年ではグラフックレベルと物理演算処理の向上によって3Dアクションゲーム内における現象はよりリアルなモノへと成長しつつあり、今年の年末から来年の頭にかけてゲーム内での物理演算は大きな転換期を迎えようとしている。

さて、前述したとおり、私はDMC1の映像を観て2・3作目よりもアクションが気持ち良いと書いたが、それは詰まるところDMC1における攻撃を受けた敵のリアクションが2・3よりも良かったからである。

DMC1では「マリオネット」と呼ばれる基本となるザコ敵が出てくる。これは名前の通り人形を模したモンスターなのだが、この敵はダメージが限界に達すると身体が十数個も破片になって四散するようになっているため、普通に攻撃しているだけでも非常に気持ちが良い。通常攻撃である剣のSE(効果音)も良くできており、「バスバス、ドスドス」といった如何にも「斬っている」感触がある。また、1では剣の重みも上手く表現できており、振るった時の風切り音と相俟って剣を振るうだけでも楽しいくらいである。そのため、プレーヤーが想像するであろう破壊の感覚と実際のゲーム上での感覚にズレは感じられない(このズレの大きさがその作品に対する評価の多くを占めていると言っても過言ではない。そして、これは破壊のみに限らない)。

剣以外にも銃で攻撃することができ、初期装備の二丁拳銃は連射速度の制限が無く(2以降は一定以上連射できない)ボタンの押した分だけ弾が発射されるため、連射をしているときは剣を使うのと同じくらい気持ちが良い。また、ゲーム中に巨大なボスが何体か登場するのだが、これらの敵に銃で攻撃すると「ガガガガガ」と小気味の良い、如何にも敵に弾が当たっている音がするためこれもまた気持ちが良い。

これに対して、2作目はあまり覚えてはいないが2では受け手のリアクションよりも主人公のモーションに力が入っており(確か60フレームだったはず)、動きが滑らかになりすぎて斬っているというより踊っている感じがしたため(皮肉にもキャッチコピーは「悪魔と踊ろう」だった)、アクションによるカタルシスはあまり感じられなかったのを覚えている。

そして3作目では、敵が「砂を媒介にして体を生成している」という設定のせいか、斬っているというよりはもはや滑っているような感覚しかなく、アクションによる楽しさというよりコンボをつなげる楽しさしかなく、はっきり言ってカタルシスは皆無に等しいと言っても良いくらいだった(銃も同様)。そのため、シリーズを通してプレイして慣れていたということもあるが、3での戦闘が一番作業感が強かったように思える。

これらのアクションでの感触を他の作品に例えるならば1は「テイルズ・オブ・ファンタジア」、2は「~デスティニー」、3は「~デスティニー2」と言ったところか。

そういえば以前の「Let`s action vol.1」の記事で「鬼武者」について書いていたが、今回この記事を書いていて気づいた事がある。「鬼武者」では「空前絶後のバッサリ感」といううたい文句で宣伝していたにもかかわらず、個人的にはゲーム内ではそのバッサリ感があまり感じられなかったのだが、今思い返してみると「鬼武者」には部分欠損及び具体的な破壊の描写が欠けていた。倫理的な側面もあったのだろうが、刀を武器にしていたのにもかかわらず4作目まで殆どそういった描写が無いのは今更ながらどうかと思う。

また、斬っている時のSEも「斬っているだけ」で破壊へと繋がる・想像できる「バッサリ」という程のモノではなく、知る人ぞ知る漫画「犬マユゲでいこう 熊田クリスピー」(集英社)では「これ『バッサリ感』じゃなくて『ザクザク感』だよね?」などと評されていた。なるほど、確かに人が日常生活で感じる「バッサリ」のイメージは石川五ェ門の斬鉄剣の如き一刀両断であり、「13日の金曜日」にけるジェイソンの鉈の如きである。物が二つに分かれない以上そこに「バッサリ」はなく、残るのは「ザクザク」だ。

現在、ゲーム中での人体破壊描写の前にはCEROという壁が立ち塞がっている。そのため、安易にそういった表現を取り入れる事は倫理的にもビジネス的にも非常に難しい。「NINJA GAIDEN 2」のように必要な要素として、いちゲームデザインとして取り入れ、あえて制限される領域へと進んでいく事も出来るが販売領域自体も制限されてしまうのも事実である。

最近、同じく部分欠損による破壊描写をゲームデザインに取り入れた「DEAD SPACE」が日本を始め幾つかの国で発売禁止になったという発表があったが、次世代機の性能よってよりフォトリアリスティックになりつつあるグラフィックを抱える以上、こういった事例は増えていくのかもしれない。ならば、CEROとゲーム業界、ゲームにおける表現のあり方は今一度考えられなければならないのではないかと思う。

今回の記事では破壊の表現について書いたが、思えば私のゲーム歴における「破壊のカタルシス」の発現は「ゼルダの伝説 夢を見る島」での剣による草刈りであった。剣を振るった時に発する如何にも草を刈る「ザクッ」という音。そして切られた草が四方へと散らばる様子。意識的にせよ、無意識的にせよ、アクションゲームにおける気持ち良さというものはその黎明期から研究され脈々と確実に受け継がれてきている。そう考えるとやはりゲームとは技術ではない、技術は「それ」に至るための方法なのであり大事なのは発想・想像力である。

作り手ではなく受けてから見た「気持ち良さ」は如何にして作られるのか。次世代機の中でもその部分に関しての良質な作品は幾つかみられるが、扱える性能の大きさに振り回されている作品もまだまだ見受けられる。私はまだDMC4をプレイしていないが、映像を見る限りでは1作目には及んでおらず、剣や銃によるSEも気持ちよさが感じられなかった。作品に対する評価が微妙なのも頷ける。

アクションの気持ち良さと言えば次世代機で今後発売される作品の中でも特に期待されている「バイオハザード5」だが、4の時に感じた銃を撃ったときの圧倒的なカタルシスが薄まっていないことを願うばかりである。聞けば操作方法が「Gears of War」に近いものになったそうだが、あまりアクションゲームに近付きすぎるのも考えものである。

まあ、面白ければ何でもいいか。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ゲーム

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。