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「魔法少女まどか☆マギカ」全12話 [アニメ]

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「『魔法少女まどか☆マギカ』とは何だったのか」という問いを発した場合、当該作品についての構造的な言及というのは避けられないものであり、こと本作においてそれをあえて避けつつ語る事は難しい。そして何より構造的な話に言及した場合、本作がアニメ史においてどのような位置にあるのかという点についても当然話さなければならないのだろうが、恥ずかしながら魔法少女というジャンルの知識が欠落している私にはそれについて語ることが不可能なので、これについては有識者の方々にお任せするとしよう。

以下ネタバレ注意




「魔法少女まどか☆マギカ」は魔法少女讃歌の物語である。

全ての魔法少女に幸あれ。
それは最終話でまどかが決意した「願い」からも明白である。勿論物語の結末のみを指しているわけではないが。魔法少女が魔女であるならば、希望が絶望に転じるならば、私が全ての魔法少女を救ってみせる。全てを投げ打って、己の身を賭して希望した、過去と未来全ての時間軸上の魔女の消滅。鹿目まどかがその決意をするにあたって一体どこまで計算していたかは測りかねるが、劇中から判断する限り少なくとも家族、友人、そして暁美ほむらとの別れ、肉体と存在の消滅に伴う自身の「概念」への移行、歴史からの忘却、とこれらについてはまどか自身は認識していた事になっている。しかし、それ以外はどうだったのか。

例えば賛否両論あるであろうみんな大好き「キュゥべぇ」ことインキュベーター(以下QB)と人類との共生関係の存続である。まどかはQBの存在自体の否定はしなかった。QBの存在、または種としてのインキュベーターの否定、あるいは地球への干渉歴史それ自体の否定。これらについては劇中でのQBが言及したようにこの干渉がなければ「人類は未だ洞穴で過ごしていたかもしれない」という可能性がある以上迂闊に手出しは出来ない危険性もあった。また、叶えられる願いが一つしかない以上、全てを丸く収める事は困難であり、まどかが自らの存在を天秤に掛けたように諦めなければならない事柄が一つや二つ出てしまうのは致し方ない事ではある。ただ、それを以てまどかがインキュベーターの存在を肯定した、もっと言えば「人類の家畜化」を許容したとするのは焦燥である。弱肉強食がこの世の摂理だということはまどか自身も理解はしているだろう。だからこそインキュベーターの存在を否定したとしても別の超文明を持つ宇宙人が地球に干渉してくる可能性も考慮していたようにも思える。それよりも、彼女自身が何より耐えられなかったのは「希望を持つ事それ自体が絶望の引き金」になってしまう魔法少女の因果である。
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「聞かなかったからさ。」
QBの行動原理は単純明快である。そこに悪意はない。あるのは只利益の追求のみである。嘘を吐いたり騙したりしているように見えてもそれらは悪意に根ざしたものでなく「そのほうが効率よく回収できるから」に他ならない。契約時に一切を明かさないのはそれが最も効率の良い方法だからである。しかしQBは自ら進んで過ちを犯してしまう。よりにもよって最強の魔法少女足りうるまどかに全てを教えてしまった事によって。QBは果たしてどこまでリスクを計算していたのか。「何でも願いが叶う」以上、自身の引いては種としての存在自体の否定をされかねない可能性を認識しながらまどかに全てを教えたのだろうか。だとすればとんだ道化師ぶりである。魔法少女達を振り回すメフィストフェレスとしての役割を負っていたにも関わらずその万能性故に逆に魔法少女に振り回される。これをピエロと呼ばずして何とするか。だが、それすら厭わないとしていたのなら大したものである。しかし、それでも作劇上の舞台装置としての枠組みからは逃れられず、「何でも願いを叶えられる能力」それ自体が自身の存在への否定に繋がってしまっているというのは如何なものか。まあ、種としてのインキュベーターについての言及をしてしまうと作品そのものが破綻してしまうのでそこはお約束という事にしておこう(オイ)。
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ただ、これに関してはQBだけに留まるモノではなく、1クール12話構成にしてしまった事で所々で無理が出てしまっており、例えば「さやかの魔女化に至るプロセス」などはその典型だろう、全12話で高校生活と魔法少女活動の両方を描こうとした場合、後半に進むにつれ日常描写は減らざるを得ないのでキャラクター同士の関係性を「築く」事はできても「積み重ね」を描く事は難しい。鹿目まどかと美樹さやか、そして志築仁美。劇中唯一友達同士が描かれる彼女らのそれまでの積み重ねは劇中では全く描かれない。そのため仁美の告白宣言はさやか本人だけでなく視聴者にも不意打ちとして認識させてしまっている。別に不意打ちである事は問題ではない。あの場合完全に「予感」が無い、想像の余地が全く無い事が問題なのである。そして積み重ねの不足は第四の魔法少女である佐倉杏子も巻き込み、杏子の唐突な捨て身によってさやかを「浄化」するという結末を迎える。全てはまどかとほむらの関係を描くための前座として(は、流石に言い過ぎだろうが)。

「最高の友達だったんだね。」
積み重ねの不足はとどまる事を知らず。第10話以降で描きたかった事は分かる。観ればわかる。だが描ききれてはいない。巴マミではなくまどかを選んだほむらの想い。家族を捨ててまで選んだまどかの魔法少女への想い。その身を投げ打ってでも遂げようとする願いへの想い。最高の友達に「してしまった」ほむらへの想い。上げればキリがないが、上記の四つは特に重要なモノな筈である。想像して補完できなくもないのだがそれはあくまで観終わった後である。本編で描けていないものを想像で補完せざるを得ないようでは褒められたものではない。
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魔法少女五人の人生と運命。その世界と宇宙の運命。どう考えても12話で描くには語るべき事が多過ぎる。結果として話全体が結論ありきの逆算的な構成になっており話の展開にキャラクターが振り回される、所謂台詞を言わされている状態に陥っている印象を非常に強く感じる。これはさやか以外のワルプルギスの夜を含めた魔女が作劇上の単なる障害でしかないという点にも通じる所である。特に11話のワルプルギス戦が終始完全に茶番と化していたのは最低の演出と言ってもいい。では2クール24~26話ならば良かったのかというとそれはそれで長すぎる気もするので17話程度が良かったのではないかとは思う。

ただそれだと放送が難しいだろうが。ただそうは言っても残念な出来だったと言うワケではなく、あくまで脚本以外の部分が非常に高いクオリティであるという事を前提に「おしい点」が幾つもあったという事だとは言っておきたい。場合によっては傑作になり得たかもしれないのでそれだけは非常に残念である。

と、否定的な話が続いてしまったが私は正直本作が嫌いにはなれない。寧ろどうしようもなく気に入ってしまった位である。まあ、これには本放送を観ずに未見の状態でBD全巻をまとめ買いしてしまった事もあるのだろうが。
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先ず映像のクオリティが非常に高い。シャフト×新房昭之というだけでお墨付きがでたようなものであり、実際演出以外でも作画の動きの良さ、レイアウトや照明の美しさ、イヌカレー空間に伴う魔女の異質さ、そして梶浦由記の通常運転っぷり等、1クールという短さもあったのだろうがアニメとして非常に密度が濃く安定してクオリティの高い作品になっている。

特にEDは素晴らしいの一言。良いアニメのOPとEDとは、それ単体は勿論の事、本編と並べて共に意味が増していくものだとするのが持論なのだが、本作のEDは今まで観てきた中でも郡を抜いて良くできている。とはいったものの、こういった抽象的なEDについては個人の意見として述べても人によっては印象が固定されかねないので、どう素晴らしいのかどう良く出来ているのかという具体的な事はここでは書かない。ただ、敢えて一つ書くとすれば物語の進行に合わせてEDの意味するところが徐々にその片鱗を見せ、毎回その印象が変わってしまうという構成の妙が見出せるという事だろうか。正直私はEDを観る度に目頭が熱くなってしまう。この目頭が熱くなってしまう感覚はOPでまどかが変身するシーンに通じるモノである。

全体の話の展開だけを見れば本作は良く出来ている作品である。既存の魔法少女モノの枠組みをそのままに魔法少女同士で殺し合いをさせ、ループされる世界の中で構造そのものを転換する。話としては非常に面白いしアニメでは中々見られない脚本でもある。その点で言えば本作の存在意義は非常に高いと言える。そして受け手に対してそう見える人にはそう見えるという絶妙なさじ加減で百合的要素を入れこれだけの人気を博しているのは「けいおん!」含め時代の移り変わりなのかとも考えてしまう。
1.jpgティロ・フィナーレ!
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