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「サマーウォーズ」が描いたもの [アニメ]

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一緒に行動するにつれて他人であった人間との間にいつの間にか生まれた結束力によって、そのまま勢いに任せて何かを成し遂げてしまった時の言いようのない一体感。

他人であるはずなのに「親戚」という名のカテゴライズによってそれ程遠くもない、けどそれほど近くもないというその微妙な距離感が生み出す程良い安心感。

細田監督最新作「サマーウォーズ」はそんな親戚とひょんな事からそこに紛れる事になってしまった少年が世界を救うオハナシである。
公開から二ヶ月。ようやく観ることができた。それにしても公開から二ヶ月経っているのにまだ上映している事に驚いたが、それ以上に未だに客が入っている事にも驚いた。

細田監督ファンはお気付きかもしれないが、本作のプロットは「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム」と殆ど同じである。

インターネット上に出現した「AI」がその突然暴れだしその影響で現実が危機にさらされる。そしてそれを「みんな」が一緒になってくい止める。

「デジモン」の場合は解決に乗り出すのは実質4人だった。そのため「デジモン」ではインターネット上でのみストーリーが展開していくという「セカイ系」的設定に留まっていたのに対して、本作では主人公+「20人以上の親戚」という異質なファクターが加わる事によって親戚を媒介にした「社会」が描かれている。

そして、描かれた社会の中で親戚がそれぞれに関わりを持つ事によって危機をくい止め、同時に親戚内にも存在していた軋轢を修復する事によって世界の危機も収束へと向かっていき、「インターネット」「家族と社会」「家族相互」という三つのネットワークがそれぞれ実を結ぶ事になる。

「デジモン」を観た時に思ったが、細田監督は物語に登場するあらゆる要素とその関連性について本当に丁寧に真摯に考えるように思える。そして何より映画として、エンターテインメントとしての起承転結が上手く練られており、114分間を長すぎず短すぎず本当に充実して魅せてくれる素晴らしい作品に仕上げている。

アニメーションの技術以外観るべき所が全くない「ヱヴァ:破」なんぞよりもよっぽど良い作品だと思う。


以下ネタバレ



まあしかし、親戚というファクターによって社会との繋がりを描いたとしても親戚内の関係が世界の危機と直結している事に違いはないのでその点ではセカイ系である「デジモン」とも50歩100歩とであるとも言える。

また、途中当主である栄が関係各所に電話で励ますというシーンがあるが、こんなことを言っては何だがそんな事をしなくても組織のトップに立つ人間というものは危機に対しての対処法は備えているだろうし、そういう事態に対処できるような人間がトップに立つべきである。それに、そもそも社会を物理的に機能・管理している職業に従事している人間はそういう事が起きないように日々訓練しているモノだし(起きてもいいように)、これほどネットワークに依存している社会であればスタンドアローン化によるリスクヘッジはされて然るべきである。さすがに核兵器のくだりは誇張があるだろうが。

それに本作のテーマとなる「親戚」の設定が「室町時代から数百年続く陣内家」だというのも納得がいかない。テーマを「親戚」とするならば、テーマを相手に伝えるならば、それは「特殊」ではなく「一般」でなければならないからである。

ホラー映画監督の三宅隆太氏は「特殊な人を主人公にしてしまうと観客は自分とその主人公を同一化できない」とし、怖さが薄れてしまうとしている。「それ」と似た部分があるからこそ「それ」に自己を投影し、身近に感じるというのは考えてみれば当たり前の事である。

数百年続く武家の家系の当主で知事褒章を受章し、政財界に広く人脈を持ち、家族の中には消防長、レスキュー隊員、陸上自衛隊員、都心の水道局員がおり、腹違いの子ではあるが画期的な人工知能の開発でアメリカの研究機関に認められる。13歳の子はゲームの世界的チャンピオン。そして極めつけに、主人公は数学オリンピックの日本代表レベルでヒロインは高校のアイドル。

誰が身近に感じられようか。
主人公の境遇に共感は出来るだろう。だがそこに集まる人々はどう考えても「選ばれた人間」である。確か「デジモン」の設定も「選ばれた子ども達」の話だった気がするが、あれはデジモンという存在が「子どもの純粋さ」というモノに呼応しているという古今東西の共通の認識の上にある物語であるからである。

だから、本作のように「社会的な地位を有する者」「人命救助に関わる者」「先天的に恵まれた者」が物語に関わり何かを成し遂げたとしても、それは「そういう人達だから」という観ている側とは全く違うフィールドで話が進んでいくため面白くはあっても共感は出来ない(中には共感させてしまう様な優れた物語もあるが)。

劇中で展開する危機に対して親戚の中ではあたかも協力関係が築けているように見えるが、「大学に納品するはずだったスパコンを拝借してきた」とか「電力がいるから俺の漁船を持ってきた」とか「自衛隊の高性能なアンテナを持ってきた」という行為はその立場にいる人間にしか出来ない事であり、それによって問題が解決したとしてもそれは「家族が協力したから」ではなく、「そういう人間が家族にいた」からに過ぎない。

監督が意図していた「親戚が協力し合って世界を救う」というのを本当に演出するならば、それは「どこにでもいる様な家族」が危機的状況である事を逆手に互いに協力し合い結束し危機を回避するというのでなければならない。でなければそれが家族である意味、必要は全く無い。

また、陣内家を設定にした事によって「特殊」な人々(要素)が集まり過ぎて「ご都合主義的展開」になってしまったという弊害も生まれてしまった。この点から考えてもやはり陣内家はもう少し平凡な家族にしておくべきだったのだろう。OZというファクターが冒頭に提示されている時点で本作の「リアリティ」の水準がどの辺りに設定されているかは理解しているが、やはり「それでも」という思いを抱かずにはいられなかった。だからその点で言えば本作へのツッコミ所というのは「野暮」の一言で片づけられてしまうのだが。

あと、もう一つ野暮な事を言うならば「内気で理系なネットに従事する高校生」という人物が主人公で、あこがれの先輩との恋人的シチュエーションに放り込まれるという展開はどう考えても「童貞の自己実現」「負け組ならではの意地」というテーマそのものだろう。ならば本作は必然的にそのテーマを敷きながら展開していくのがセオリーというものなのだが、観ての通り主人公は「数学オリンピック日本代表レベル」という肩書きを駆使し、危機を解決し、何と最後にヒロインを手中に収めてしまうのである。

これはどう考えても「こっち側の人間」(をあえて演じている人も含む)にとっては噴飯物であろう。最初どう考えても「こっち側」であるように描かれていた主人公がものの見事に「あっち側」へ行ってしまったのである。「何だよ。結局リア充(最近憶えた)かよ!」と思われても仕方がないだろう。だからそういった人達にとっては本作には居所が全く無いのかもしれない。というかライムスター宇多丸氏は明らかにそうなのに(公言している)何故氏はその事について全く言及しないのか、疑問である。

とまあ、色々書いたが基本的には良くできた作品であり非常に楽しめる作品にはなっている。中でもOZ内でのアクションシーンはかなり見応えがあり、3DCGはネット空間での限定的用法によって違和感は全くないモノになっている。そして、何より凄いのは親戚が集まっての食事シーンである。これは本当に凄い。これだけでも観る価値はあるだろう。画面を食べ物と人の手が所狭しと縦横無尽に行き交うあの場面は圧巻の一言に尽きる。そして「食は人の中心、生活の中心を成している」という事を食事のシーンを通して見事に描いている。

そして、やっぱり出てきた「死のイメージ」。
「デジモン」「ワンピーズ」では抽象的だったのに対して本作では明確に物語の中に「死の影」が落とされている。とは言っても本作ではそれは肯定的に描かれており、上記の二作のように不快感を伴うものにはなっていないので、これは細田監督が結婚した事による心境の変化が影響しているのだろう。しかし、こうなってくるとこれから先も細田監督の作品には何らかの形で「死」が描かれていく事が考えられる。私は未だ「時をかける少女」を観ていないので何とも言えないが、5作品中3作もそうなっているのは偶然ではないのだろう。ある意味楽しみである。

蛇足:

それにしても細田監督は何故栄を舞台から退場させてしまったのか。確かに「結束」という本作のプロットを考えれば栄の退場というのは必要ではあるが、栄と侘助とのわだかまりが解消されないまま一方的に退場してしまうのは栄の魅力を考えるとちょっと勿体ない気がする。それに侘助は栄に言葉はかけても家族に何も言っていないというのはちょっとどうかと思う。そしてそれを気にもせず侘助を受け入れている親戚も如何なものか。

栄の魅力というのがその退場によってより大きなものとなっているのは分かるが、どうにもこうにも勿体ないと感じてしまうのである。

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