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「ベヨネッタ」におけるクライマックスとは [ゲーム]

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物事はそれ単体では評価し得ず、常に何かと比較されなければばならない。そしてそれは物事を評価する事に留まらず、数の大小、事象の変動などにおいても同じ事が言える。

「ベヨネッタ」のディレクターである神谷英樹は「ベヨネッタ」のゲームデザインを「クライマックス・アクション」としている。これは近年のアクション映画やアクションゲーム、FPSなどにみられる「導入部からの派手な展開」が全編に渡って繰り広げられる「全編クライマックス・アクション」である。

これは従来のアクションゲームのように敵を倒してステージを歩いて移動してまた敵を倒すというようなルーチンワーク的なモノではなく、カメラワークと演出によって畳みかけるように場面を展開させ、ステージ全体を使ってアクションを表現するという次世代機ならではのスペックを生かした新機軸かつ王道のアクションゲームである(多分)。

しかし、ここで一つ問題がある。
先にも書いたようにモノの評価は評価であり、単体ではなしえない。それは「クライマックス」でも同じである。そしてクライマックスがクライマックス足り得るのは「クライマックスではない部分」存在するからである。

『街場の現代思想』で内田樹氏はこう言っている。
「「クライマックス」というのは、「クライマックス以前」のダレ場と「クライマックス以後」のダレ場にはさまれて、その緊張感の差異の効果によってはじめて「正念場」として認識されるものだからである。「クライマックス以前」と「クライマックス以後」とが同時に認識されてはじめて「クライマックス」は「クライマックス」である。」

クライマックスが延々と続いたらそれはクライマックスではない。たとえ個々の場面でのクライマックス感に差異があろうとも同じモノが続いてしまうと人間はダレてしまうか飽きてしまうモノである。クライマックスを演出するにおいて大切なのはクライマックス部分をどう演出するかではなく、それ以外の部分をクライマックスへと繋げるために如何に演出するかである。

神谷英樹の事だからこんな事はとうに知っているのだろうが、それでも多少なりとも不安は感じてしまうモノである。ただ、ゲームというのは個人のペースで進めるモノであり、「ベヨネッタ」は延々とアクションシーンが展開していくようなモノでは無さそうなのでやはり杞憂に終わりそうである。


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