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たかじんと愉快な仲間たち [日記]

いわゆる「評論・討論番組」を制作する中で最も注意すべき点は「番組そのものがイデオロギー化してしまう事」だと私は思う。進行役が特定のイデオロギーを有する、あるいはそれを明示しているような場合は別だが、そうでない場合は進行役引いては番組の制作側は「意見を扱う側として」中立を意識する必要があるのではないか(もちろん義務は無い)。

先週の「そこまで言って委員会」にある著名な女性ゲストが登場していたのだが、その後の番組の構成に驚いてしまった。どう見てもそのゲストの思想は番組寄りであり、番組の演出も歓迎ムードそのものであり、いつもの討論メンバーの殆どがそのゲストを歓迎していたからである。

そして、そのゲストが登場してから憲法9条についての議論が行われたのだが、その時のある人(失念)の発言が番組のイデオロギーをさらに露呈させてしまう事になった。

「ここにいる人の殆どが改憲論者ですよね。」

ああ、そうだったんだ。だから「こんな雰囲気」なんですね。
その後、一通り議論(にもならない議論)が行われ、ゲストに対して「あえて反論するならば」という体で各人の意見が提示されたのだが(この時点で既に狂っている)、まさにそれは「体」以外の何者でもなく、そこでは「反論」という名の「提案」が次々となされるという、とても討論番組とは思えないような場が展開していた。

別に私は改憲に反対しているワケではない。ゲストが嫌いだったワケでもない(興味はないが)。私が不満なのは当該番組が討論番組の名を借りておきながら「イデオロギーの場」を形成していた事である。しかも制作スタッフもそれに荷担していたという有様だ。というか何故たかじんはそれに気付かないのか。あるいは気付けないのか。それとも・・・。

前述したように政治的・社会的なテーマを扱うメディアにおいては「中立・公正」を守る義務はない。それに「そこまで~」はいちおうバラエティ番組であるから、そんな事にいちいち目くじらを立てるのは不毛であろう。

だがしかし、バラエティ番組であるからこそ、比較的視聴率の高い番組であるからこそ、その制作に当たっての内容の判断は慎重を期すべきではないのか。

文化や娯楽に政治的なメッセージが込められている時、人はその政治性に対して抵抗力を弱めがちである。宗教と同じように、それとは知らずに自己が特定のイデオロギーに取り込まれているなんて事は十分に考えられる。現にアメリカではその歴史の中で「歌」は幾度として民衆の「武器」として用いられてきた。

おそらくこの文章を読んでいる人の何人かはこういった事については「真面目に考えすぎだ」と思うかもしれない。しかし、メディアリテラシーというモノはこういった観点から生まれるのであり、例え少数であったとしてもこういう意見はあるべきではないかと思う。もちろん同時に私のこの意見も精査されるべきモノである事を意味するのは言うまでもない。

「長い物に巻かれる事」や「多数決」は正義ではない。そして「正義」はどこまでいっても「正義」ではない。物事を客観的に、俯瞰的な視点を以て見たとしてもそれが「主観的な視点」の範疇を超える事は決してないが、単一の価値観が何も生みはしない事を私達の歴史は証明している。

「そこまで~」はこれからも単一の価値観のままで続いていくのかもしれないが、そうなれば増大する「馴れ合いの空気」によって視聴者が嫌気を指すのも時間の問題だろう。それにすら気付かないかもしれないが。

どちらにせよどうでも良い事に変わりはない。

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