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「キック・アス / KICK ASS」(2010年) [映画]

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アーロン・ジョンソン出演
クロエ・グレース・モレッツ出演
ニコラス・ケイジ出演
マシュー・ヴォーン監督作
マーク・ミラー原作

スクリーン観賞

特殊能力や財力の無い平凡な人間がヒーローになろうとする場合、彼らは一体何を資本とすれば良いのか。希望か、勇気か、努力か、優しき心か、それとも・・・。本作はそれを否応なしに痛感させられる作品である。痛感と言っても別に私自身はヒーローになりたいワケではないが、「ダークナイト」や「ウォッチメン」に代表される「自警団はあくまで普通の人間である」という事を前提としてる作品を観ていると(読んでいると)、傍観者でありながら「同じ人間である事」に非常に身につまされるのである。

ただ、本作は「スーパーヒーロー映画の系譜」に属していながら、実は上記の二作品や「スーパーマン」「スパイダーマン」「アイアンマン」等の「スーパーヒーローという存在を可能な限り日常に落とし込んだ作品」とは立場が異なっている。

それは本作が完全に日常の延長上に展開しているからである。そしてそれは本作の主人公が高校生である事からも明白だろう。空を飛ぶ、糸を吐く、圧倒的な怪力、又は圧倒的な財力。上記の作品、特に所謂9/11以降に製作された作品はどれも「現実感」にコンセプトを置いてはいたがやはりどれもファンタジーである事に変わりは無かった。あの「ダークナイト」でさえ特殊な人間は登場しないものの、バットマンが存在する、認識される「社会」を演出したせいで、逆に作品の雰囲気、空気感により「ゴッサムシティ」という存在に全く現実感が無くなってしまった。

と、書いていて気付いたが、実はこれが「典型アメコミヒーロー」の構造だったのである。

どういうことか。
つまり、従来の作品は「スパイダーマン」「バットマン」などのスーパーヒーローを軸、あるいは頂点として「彼らが存在する社会とは」「如何にして彼らを社会の一部として組み込むか」という「先ずはスーパーヒーローありき」であるピラミッド型に構想、構築されていたため、いくら現実的な描写を組み込んだとしてもそこにはどうしても「非現実感」が現れてしまうという事である。

以下ネタバレ。

だが本作「キック・アス」は逆である。
「とりあえず今の社会があるとして、誰かがスーパーヒーローになったらどうなるか」。つまり作品の主人公はキック・アス自身であるのだが基本的な構造、というよりプロット以前の段階である全体像の構築は「キック・アス」登場後の世界、世間を中心としているのである。「キックアスが現実の社会に登場した場合どのような影響があるか、どういった要素が派生していくか」。ややこしいとは思うが「似ているようで違う」のである。出発点が違うといえば分かりやすいだろうか。

本作の主人公がコスチュームを手に入れて行動をするまでの過程は「スパイダーマン」にそっくりだがスパイダーマンの場合、その前提として「現実において超常の力を手に入れた人間」を成立させる必要がある。そのため、スパイダーマンを含め数多あるスーパーヒーローは最初からスーパーヒーローになってしまわざる得ない。「非日常存在」を日常に落とし込むための設定という構造を取らざるを得ないのである。

そしてここからが面白いのだが、先程ピラミッド型と表現したが、では「キック・アス」は逆ピラミッド型、つまりは最終的にはスーパーヒーローになるのかというと実はそうでもない。観た人はもう知っていると思うが「最終的には」主人公は既存のスーパーヒーローが為しえた「社会的なスーパーヒーロー」にはならないのである。それは主人公が平凡なただの高校生であり、何のとりえも無く、肉体的にも非常に弱いからである。それはメインのアクションシーンの殆どがヒットガールを占めている事からも明らかだろう。

つまり本作はウォッチメンに代表される「スーパーヒーローが現実に存在するとしてそれはどういうことなのか」という脱構築の姿勢をとりながら、主人公は「スーパーヒーローに憧れて真似をしてはみたものの・・・その実「スーパー」でも「ヒーロー」でもなかった」という非常に奇妙な構造をしているのである。

とまあ色々書いたが、はっきり言ってここまでは適当に書いただけなのでまじめに受け取らないように。というか本来書きたいことのための導入として書き始めたのだが何でこんな話に・・・。それが文章を紡ぐ事の面白みでもあるのだが。

では、本題。つまりは感想。そして完全にネタバレ。

本作を一言で表すなら、恐らく「オタク童貞の自己実現」が一番相応しいだろう。
貧乏な家庭に生まれて父子家庭であり、何のとりえも無く、どうしようもないオタクで友人もオタク。女性からは男として認識されず、男からは嫌がらせ。MySpaceは全く賑わず、カフェでスーパーヒーローを語り、挙句の果てに通販でコスチュームを購入する始末。コスチュームを着て鏡の前で自分に浸り、自分の強さに勘違いして車泥棒を制裁しようとしたら逆に腹を刺されて更に車に追突。ヒーローとして、それ以前に主人公として類を見ない位の酷さである。

しかし、弱い者はそれ故に人々の同情をかう。そして弱ければ弱いほど強くなったときのカタルシスはより大きくなる。そして本作はそれがすぐにやってくる。

退院後の第一戦、ドーナツ店の前でのチンピラ戦である。
普通、人は何かしら事故に遭遇した場合同じような状況に対しては少なからず拒否感を示す筈である。主人公の様に「何かをしたせいで傷を負った」という場合ならなおさらである。しかも主人公の場合死ぬ一歩手前である。それなのにキック・アス扮する主人公はチンピラにからまれている見ず知らずの他人をかばいながらこう叫ぶのである。

「Year,I`d rather die.(死ぬ覚悟はできている!!)
So bring it on!(かかってきな!!)」

アクション映画で格闘シーンが展開した場合、特にそれが作品内での最初の格闘シーンならば普通はテンションが上がって盛り上がる筈である。そう、普通の作品ならば。けれども私はこの場面、主人公が文字通り死に物狂いでチンピラ相手に戦っているのを観て目頭が熱くなってしまった。映画開始まだ30分である。これはちょっと凄い。これは私が自己犠牲モノに非常に弱いという事もあるのだが、この構成はちょっとズルい。最初の30分あんな展開をされてはこんなショボい格闘シーンでも主人公を応援せざるを得ないし、盛り上がってしまうのは当たり前である。更にはこれを店内で傍観している観客がいる事によって、そして彼らがyoutubeに動画を投稿する事によって、主人公はスーパーヒーローの使命である人助けと自己犠牲、社会からの認識、支持を同時に達成してしまうのである。

ここから本作は私にとって異様な体験となってくる。

第二戦の売人ラズール戦。初のヒットガールアクションなのだが、まあこれは文句なしに格好良い。言うこと無しである。

第三戦のビッグダディアクションが展開する倉庫の手下戦。これも上に同じ。

そして第四戦のビッグダディ・キックアス救出戦。
話はそれるが本作はサウンドトラックが素晴らしい。オーディオコメンタリーでも監督が語っていたが「スーパーマンのテーマ」やストリングスが印象的だった「ダークナイト」へのリスペクトが非常に感じられ、また既存曲の選曲センスと効果的な配置、メインテーマの編曲センス、メロディアスなオリジナル楽曲。それらが全編に渡って絶えず素晴らしい楽曲が展開していくため否応なしに心を動かされてしまう。それはアクションシーンにおいても同様である。
閑話休題。
第四戦は本当に素晴らしい。
ライトが破壊されヒットガールによるFPS視点で無双が始まり、ビッグダディに火が付く事によって心理的に同様、同時に敵から発見されるという窮地に立たされるも、ビッグダディの言葉によってどうにか落ち着くヒットガール。

「Now switch to Kryptonie!(今こそクリプトナイトを使え!)」
「Go to Robi`s Rvenge!(次は『ロビンの復讐』だ!)」

なんというリスペクト。これは反則技である。
そして自らの死を省みず命の危機に瀕しながら弟子に助言をしていく師匠。これぞまさに師弟関係の真髄である。そして何よりも目の前で死に逝く師を見ていながら助けることが出来ないヒットガールの苦しみ。私はこのアクションシーンで正直泣きそうだった。サントラも素晴らしすぎる。

その後のヒットガール出撃後のキックアスの自問。

「With no power comes no responsibility.(力無き者には責任も伴わない。)」

非力な自分が助けに行ってたとしてもどう考えても負け戦である事が分かっている、又は今度こそ死ぬかもしれないのに自ら死地に赴く。その男泣き根性に思わずまた目頭が熱くなる。

エレベーターから正面殴りこみのヒットガール戦。第五戦目。
ロックナンバー「Bad Reputation」と共にヒットガールが敵地の廊下で敵を殺しまくるこの場面。普通敵本拠地殴りこみといえば絶好の燃えシチュエーションなのだが、私は何故かこの場面、感動して泣きそうになっていたのである。我ながら異様な状態だった。多分、私は「殴りこみ」よりもヒットガールの「復讐」という側面に強く思いいれをしていたのだろう。だから、なりふり構わず敵に鉛弾を叩き込んでいくヒットガールに悲しみを見出し、一人また一人と殺していく度に父の仇を達成していく彼女の心に思いを馳せたのだろう。文章にしてみるとそうとうアレだが。

そして、最終戦のヒットガール対親玉、キックアス対レッドミストのガチバトル。
監督は本当に良く分かっている。下手に二人が協力するよりもこういうシチュエーションの方が絶対に良いからである。ヒットガール戦が盛り上がるのは当然なのだが、それはキックアス対レッドミストも同じだ。二人にとってはライバル同士の戦いであり、同時にこれは男の戦いでもあるからである。使用している武器からすれば死なないことは分かりきっているから緊張感が無いというのは的外れだろう。これは誇りと意地の問題なのだから。だが監督よ、ここは素手で殴り合ったほうがもっと盛り上がっただろうに。まあいい。

両者の戦いに終止符が打たれ、ボロボロになったヒットガールを抱えジェットパックでビルから飛び立つキックアス。そう彼は空を飛んでいるのである。傷ついたヒロインを抱いて飛び立つその姿はまさしくスーパーマンそのものではないか。もう言わなくても分かるだろう。そう、この瞬間だけ彼はスーパーヒーローになったのである。なんというビルドゥングスロマン。なんというダイナミズム。チンピラに腹を刺され、車に轢かれ、ゲイに間違われ、火事で死にそうになり、拷問で殺されそうになり、何度も何度も血を流しボロボロになりながら、自分は弱い人間であるという事を知りながら、そして人の武器を借りないとまともに戦えない様な人間でありながら、この瞬間だけ、この短い間だけ、彼は本当のスーパーヒーローになったのである。

はっきり言おう。
私はこの場面、号泣していて全く画面が見えなかったのである。

まさか「キックアス」で泣くとは思わなかった。全く予想だにしていなかった。何せそもそも本作に期待していたのは「痛快ヒーローアクション」だったからだ。「トイストーリー3」の時もそうだった。「ピクサーによるクオリティの高い物語」を期待していただけで、しかも私自身はシリーズに全く思い入れが無かったのである。いやはや何とも。しかし、だからこそ劇場に観に行くのは止められないのである。
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k_iga

デイブが途中で「XーMEN」のウルヴァリンのように鋼鉄の骨格になって
末梢神経の痛みも感じにくい?身体になるという設定は・・・。

「X-MEN」へのリスペクトかもしれませんが、最後まで特殊能力の無い
ヒーローで通して欲しかった気もします。
by k_iga (2011-02-03 02:45) 

smith

複雑骨折で金属を埋め込んだ場合、レンドゲンではあんな感じになるそうです。金属のピン、ワイヤー、スクリュー、プレート、ロッド(棒)などが用いられる様ですね。ピンやワイヤーなどに用いられる金属は、ステンレス、高強度金属、チタンとのこと。

あと、痛覚に関してですが、末梢神経症として感覚神経が鈍ることもあるみたいです。ただ実際には感覚が鈍ることで実生活に支障がでてしまうので映画のようにはいかないのでしょうけど。それに、逆に痛みを感じにくいという事はその分死にやすいという事でもありますが。

まあ、いずれにせよデイブの場合はあれで強くなったというワケではないので設定にあまり意味はなさそうですね(笑)。あくまでリスペクトとしての設定でしょう。
by smith (2011-02-05 00:45) 

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