「Let It Go」はありのままの自分の夢を見るか。 [映画]
劇中歌の吹き替えというのはその性質上元となる歌の歌詞をそのまま盛り込むのは不可能である。言語が違う以上同じ意味を有する言葉であってもその文字数は大きく変わり、そもそも発声方法が異なる。外画の日本語字幕に代表されるように映画、アニメを問わず字幕での翻訳というのは常に制限との戦いであり、原語の情報を損なわずに伝えることが不可能である以上、如何にして提示されているニュアンスを限られた文字数で伝えられるかが重要となる。また、作品が有する文化的な文脈も言語が違う以上場合によっては全く理解できない事もあるため、翻訳する側の文化に合わせた翻訳がなされる事も多く、それらは単に文化的齟齬や無理解に対応したものだけでなく単純にマーケティングの一環として行われる事も多い。
「アナと雪の女王」における主題歌である「Let It Go」。日本語吹き替え版が公開されてからというもの歌い手である松たか子の歌唱力を評価する意見がある一方、Idina Menzel演じるエルサが歌う英語版との歌詞の違いにも注目が集まり、その内容の意味するところが日本語版では少々異なっていると話題になっていた。そのためか、英語版と日本語字幕版、日本語吹き替え版それぞれの歌詞の違いを比較しそれぞれどう違っているのか、そしてそれらの違いが意味しているのは何かという事がネット各所で見られるようになった。
そういった意見があった事からつい先日漸く私も歌詞をそれぞれ比較し、その上で英語版をなるべく自分の言葉で訳してみたのだが色々と面白い事が分かった。そもそも、翻訳におけるニュアンスの違いであればそれこそ英語に堪能な人が独自に翻訳して比較しているので、お世辞にも英語が得意とは言えない私がそれに追従する必要は全く無いし誰も求めてはいない。今回この記事を書いたのは、翻訳された歌詞の比較ではなく、そもそも原語である「Let It Go」が何故そうなっているのか、何を意味しているのかという点について言及しておきたかったからである。
「Let It Go」の歌詞をそのまま全文掲載すると文章が長くなってしまうのであくまで当該部分についての抜粋に留まる。歌詞は検索すればいくらでも出てくるのでそちらを参照して頂きたい。なお、こういった歌詞の読み取りというのは往々にして「深読みが過ぎる」ものなのであくまで一個人の感想として考えてほしい
先ず最初の、「A kingdom of isolation, and it looks like I'm the Queen」の部分について。これは二重の意味になっており「A kingdom of isolation/隔絶された王国」とは雪に覆われフィヨルドが凍結し外界から孤立したアレンデ―ル王国とエルサが現にいるノースマウンテンの山々を指している。そこからくる「and it looks like I'm the Queen/さながら私はその女王ね」は雪の女王の様に見える今のエルサ自身に対して、そしてつい先刻までアレンデールの君主であったエルサ女王、つまりは自分に対しての皮肉の意味も込められている。
続く「Couldn't keep it in;Heaven knows I tried」だが、引っかかったのが「Heaven knows/神(だけ)は知っている」という言い回しである。神のみぞ知るという意味であれば「only god knows」の方が分かりやすい表現だと思ったのだが、おそらくトロールやエルサの雪の能力以外に非現実的な要素が少ない本作において「神」を直接指す「god」を使ってしまうと、観る側の宗教上の神が先行してイメージされてしまう事が考えられる。これは神という言葉が何か抽象的な大いなる存在という漠然としたイメージしか連想出来ない私たち日本人には分かりづらい感覚だろう。そのため「Heaven/天国」という言葉によって間接的に神を指す言葉を選んだと考えられる。
ただ、これにはもう一つ意味が含まれている。それは船の沈没によって他界した両親である。「god」という言葉は直接的なだけでなくこの場面においてはそれまでの文脈には不釣合いな言葉であり、「I tried」がそもそも何を指しているのかという点を考えなければならない。「I tried/私は試した(やれる事はした)」における「tried」は当然「秘密を守ること」である。そしてトロールを除いてエルサの魔法について知っているのは両親だけである。
その両親が死んでしまったこの時に天に向けて言葉を発するというのは両親に向かって話しているも同義である。というかそのものだろう。そして、この天に向かっての言葉はそれだけに留まらず、この言葉を言っている事それ自体が秘密を隠し通せなかった自分自身への弁解にもなっているのである。「やれる事はやった」と。そう考えると「Heaven knows I've tried」をエルサの心情に近い形で意訳するならば「やれる事はやった、私は悪くない」となるのかもしれない。
象徴的に繰り返される「The cold never bothered me anyway/もう寒さが私を悩ませる事は無い」。日本語吹き替え版を観た時「私もう寒くないわ」となっていたので原語もそれに近いニュアンスの言葉だろうと思っていたのだが、意外にも迂遠的な言い回しになっていた。「bothered」という単語もさる事ながら寒さを表す言葉に「The cold」という抽象的な言葉を選んでいたからである。この「The cold」はおそらく閉ざされたアレンデール城での日々、自身の氷を操る能力、雪に覆われた今の世界、そして寒さそのもの等を指しているのだろう。そして何よりも「The cold=自分自身」である事は言うまでも無い。
中盤の「You'll never see me cry/あなたが私の涙を見る事はないでしょう」。一人で歌っているのに何故「You'll」なのか。何故「私はもう涙を見せない」ではないのか。これは誰に向かって言っているのか。勿論これはエルサ自身に向けて言っている言葉である。これによってもう涙は見せないという事を自分自身に言い聞かせるという意味も含まれるが、自分をyouを呼ぶことによってアレンデールにいた頃の力を恐れていた自分=youとの決別の意思が表れているとも言える。
終盤の「That perfect girl is gone/理想の娘はもういない」。これは最初の方の「Be the good girl you always have to be/あなたは常に良き娘であろうとする」にも通じる話である。映画本編では詳細が省かれていたので一度二度観ただけでは分かりづらいのだが、城を閉鎖した8歳の頃からエルサは時期女王としての教育を受けており、つまりは幼少の頃から君主になるための帝王学と自分の感情のコントロールを両親から半ば強制的に教え込まれていたのである。帝王学だけならまだしも、幼少の多感な時期から何年もの間常に感情を殺す生活を続けなければならなかった状況がエルサにとってどれほどの負担だったかは想像に難くないだろう。なおこの部分についてはノベライズ版と絵本に関連した記述があったので引用させて頂く。
しぶしぶながら、アナがひとり遊びを覚えていく一方、エルサは王と王妃について、未来のアレンデール君主としての執務とマナーを仕込まれていった。同時に、何にも増して重要な、禁断の力を制御する術をみにつけようと努力した。だが、それはたやすいことではなかった。小説アナと雪の女王[竹書房文庫] 31Pより
You were the picture of perfection, evey day, no matter what.「A Sister More Like Me」における「You were the picture of perfection, evey day, no matter what/あなたは完璧な絵画そのもの。いつも、何があろうと。」は正に「That perfect girl is gone」との対比そのものである。自らの力の危険性が露になった8歳のあの時から21歳となる戴冠式までの約13年間。両親以外との面会を許されず誰とも触れ合えない、閉ざされた空間で常に耐え忍ぶしかなかったアレンデール城での生活はエルサにとって呪いにも等しいものだったのではないか。その13年間に対する情念が「That perfect girl is gone」に込められているのである。悲しいかな、ここでのエルサは全てから開放される一方で両親を含めたアレンデールでの日々を否定する事になるのである。絵本「A sister more like me」より
曲中に3回登場する「Let the storm rage on/吹雪よ吹き荒れるがいい」。日本版では「風よ吹け」とだけなっているのだが、英語版では結構激しい表現が使われている。ここでの「the storm」は本来の嵐の意味よりも吹雪の方が適切だろう。と言うのもこの「the storm」はエルサ自身だからである。作品は変わるがとある有名な台詞に「見ろ!人がゴミのようだ!」というのがある。あれが面白いのはあの非日常、非現実的な状況下において反射的に言葉が出ているという事である。人がゴミのようだと言ってしまうという事は無意識のレベルで常に人をゴミの様に扱っている、又は扱える様な力を求めているという事である。言葉がその人となりを表す良い例だろう。
曲中で3回も使われるこのフレーズ。繰り返されるという事は当然それを強調したいという事になる。これは自らの力によって起こる吹き荒れる吹雪に対してもそうなのだが、それ以上にエルサの内に宿る激しい情動を表しているとも言えるだろう。「Let It Go」の歌詞を見てみると「Let the storm rage on」の他にも「Turn away and slam the door/背を向け扉を閉ざすの」「I'm never going back, the past is in the past/もう振り返らない、過去は過去よ」などありのままの自分を受け入れるポジティブな印象の強い日本語版に対して英語版は過去に対する強い情念が表れており、未来への希望よりも寧ろ過去を閉め出そうとしているかのような印象を受ける。
自らの力のままに破壊者となった「キャリー」のように「Let It Go」のエルサは自身の力を肯定し受け入れながら孤独の道を笑顔で突き進もうとしている。そう考えると英語版の歌詞は歌い手であるIdina Menzelの声の力強さがありながらも同時に悲壮感の漂うような印象が強く感じられる。そして面白いのが、エルサは「Let It Go」と叫び歌いながら女王の服を脱ぎ捨てティアラ(王冠)を外し結んでいた髪をほどいて自分を開放するのだが妹であるアナとおそろいのおさげ髪だけはそのままなのである。これは明らかに制作側の意図的な演出だろう。映画にしろアニメにしろ女性が自分らしさまたは女らしさを表現するような場面では大抵結んでいた髪を全てほどくものなのだが、その意図が最も強い本作においてはおさげ髪だけはそのままなのである。これは明らかにエルサの無意識におけるアナに対する想いの表れと言って良いだろう。後ろ髪を引かれる思いとは正にこの事(誰が上手い事を言えと)。
また、小説版と「A Sister More Like Me」を読んだ人はお分かりだろうが「My soul is spiraling in frozen fractals all around」はエルサが幾何学を好んでいる事に繋がっているのだが、そうしてみるとあの城を創造するシーンはエルサの意匠が込められているという興味深い見方も出来る。
こうしてみると歌詞だけでも結構読み取れるものがあるのだが、これを踏まえた上で改めて映画本編を観てみると「Let It Go」全体の印象が変わって観え、また新しい見え方も発見する事が出来た。「Let It Go」を歌うエルサは本当に表情豊かでIdina Menzelの歌うその様を参考にアニメーションを付けただけのことはある。手の動かし方、目の方向や口の大きさなどの顔の表情、映像全体のレイアウトによって表現される感情など歌詞と映像が合わさる事によって一つとして同じものが無い氷の結晶のように幾つもの表情を浮かび上がらせる。日本語吹き替え版である松たか子の歌は本当に素晴らしいのだが、一度英語版の歌詞を知ってしまいその上で映像を観てしまうと正直これ以外は考えられない。
記事単体として書くほどのものではないので余談かつ全く関係ない話として書くが、『アナと雪の女王』ハンス王子の解釈を考えた上で「Love Is an Open Door」を観てみると面白い事が分かる。アナがエルサから拒絶されてからの約13年間、アナのエルサに対する想いは募る一方で全く理解できない姉に対しての感情と外界に対する人恋しさ(運命の人)は比例するように膨れ上がっていく。そんな中出会ったハンスはその境遇から好みまでまるで自分を見ているかのようで、これの意味するところはハンスが正に自分の求めていた相手=自分自身であるならばそれは理解できなかった姉に対して求めていた部分だとも言える。そしてこれは「A Sister More Like Me」が意味するところのそのものでもある。
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