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抗う [日記]

非常に個人的な事について書いているので暇な人推奨。

かつてこれ程までに他人に対して強い嫉妬心を感じ、自らに対する焦りと苛立ちを感じたことは無かった。嫉妬心を感じているという事は当然、当人が有するファクターに対しての劣等感がある、つまりは「私が持っていないモノをあの人はもっている」という事になるのだが、ネット上のそれも当人のブログのコメント欄で1、2度会話した程度の関係でありながらここまで強い感情を抱いている事に我ながら驚いている。いや、今はそのような自身を客観視するような気分ではない。気分というより、ある意味興奮していてそこまで客観的にはなれないと言ったほうが正しい。何せ、今これを書いているのが夜中の12時であり、書かずにはいられなかったからである。正直こういった個人的な、それも内面に関するような事は今まで殆ど(全くか?)書いたことがなかったので、こうして書いている今も果たして書き上げたとしてアップしたものかどうかという一抹の不安は感じている。とは言ったもののこうして書いている時点で9割方載せる気なのだろうが。

やりたい事、成りたい事、出来る事。幼少の頃に抱いていたような漠然とした、或いは常識的に考えて出来ないような夢とは違い、高校生や大学生にもなれば身に付き始めた社会性や知識、見識、そして自身の能力、人間的素養など比較考量した上で希望的観測に基づいた人生設計を組み始めるものではある。そしてその「希望的観測に基づいた人生設計」は年を経るにつれ「現実」というファクターによって徐々に侵蝕されていく事となる。十代の頃は考えもしなかった「残りの人生を逆算して行動の可能性を取捨選択していく」という行為が、一年の感覚が短くなるのと比例するかのように無意識の内にその行動の指針において徐々にその比重を大きくしていく。

私が「かの人」に対して嫉妬していたファクター。それについて明確に意識したのは2010年頃。それ以前から「そういった事」に対しては興味はあったのだが、関わりたい携わりたいというような目的的な意識を持つようになったのはこの頃だった。原因としてはまあ良くあることなのだろうが「それら」に携わる人、生業とする人にコンタクトをとる事が出来たからである。これまでに2回あったのだが2回とも偶然というか全く予想だにしていなかった出来事だったので本当に全くの偶然だったのだが、意識するには十分の出来事だった。というのも片方は私がその業界において最も尊敬する人に酒の席とはいえ隣に座って会話をする事が出来たからである。今考えても本当に信じられない体験だった。私が中学生の時にそれらの事に興味を持つきっかけを与えてくれた人であり、おかげで良くも悪くも人生が変わってしまったのだが本人に会えたという事は成るべくして成ったという事なのかもしれない。そしてその後にあった2回目の出来事。これは1回目ほどの大きな出来事ではないのだが(と言ってしまうと失礼だが)、これも本人とコンタクトが取れてしまったパターンであり全く予想外だった。

運命や必然というのは概ね願望に基づくものであり、傍から見ればそれらは非常に滑稽にも見えてしまうものなのだが、それについては「考え方次第」という便利な言葉がある。私はこの2つの出来事によって浅はかにも「あぁ、これは多分天啓なのだろうなぁ」みたいなことを考えてしまい、それ以降「それら」についての思いはより強い、はっきりとしたものになった。が、問題はここからだった。そう、確かに興味はあった。関わりたい、携わりたいとも思った。しかし現実的に考えて果たしてそれらは可能なのだろうか。好きな事、やりたい事の職についている人は少ないという事の以前に今現在の自分にそれが可能なのだろうか。というのも、前述した私が出会った2人。特に前者に関しては経歴がかなり特殊で同じ道を辿るのはほぼ不可能であり、その人が今現在その立場にあるのはその経歴故というところが大きいからである。世代が変われば生きてきた時代も異なり触れてきたものも異なる。当たり前の事だが、その当たり前の事実が決して埋めることの出来ない溝として眼前に広がっているのである。別に同じ道を辿りたいわけでは無い。同じ人間になりたいわけでも無い。だが、その経歴がその職業において圧倒的なまでのアドバンテージになっているという事実は周りから見ても明らかであり、唯一無二といっても良い今の立場を考えれば明白である。

いや、それでも今の自分なりの在り方でやればいいじゃないかと思う人もいるだろう。しかし、その人がその立場にあるのは昔から「そういうスタンス」で行動していたからだとしたら、趣味でやっていた事が偶然仕事に繋がっていたとしたら、今までそんな事を考えたこともなかった、そんな経験も無かった自分に一体何があるというのか。「それら」について今まで積み上げてきたものも大して無い、その上何もしていなかった自分に何が出来るというのか。そもそも比較すること自体が間違っていると言われても仕方が無いが否応なしに比較してしまうのである。だから、それらに携わる事に興味はあってもこの埋めようの無い圧倒的なまでの差の前には所詮は「夢」であるという諦めの思いが浮かんでは消えていくばかりなのである。

そこへの今回のこの嫉妬心である。いや、最初にも書いたが私自身嫉妬している事実には本当に驚いている。心の底から諦めたわけではなかったのか、と。嫉妬心もそうだが先を越されたことに対しての悔しさもかなり感じており、まあ全くの他人というわけではないのだが、ブログを見ていながら知らないうちに自分と比較していたのだろうなぁ等と振り返ってみたら確かにしている。明らかにしていた。それ程年が離れていないという事もあるのだろうが、これ程までに感情的になってしまうとは勝手な親近感も困り者である。厚顔無恥とは正にこのこと。

しかし、こうなってくると嫉妬心は兎も角本当に焦ってしまう。今年の夏で27歳になるのだが後3年で30歳。三十路である。今自分が20代後半であるという事すら実感が無いのに後3年である。今の収入でも人並みの暮らしは今後もしていけるだろう。何かあっても実家に帰ることも出来る。だがこのまま30歳40歳と年をとっていく事を考えると恐ろしくてならない。まだ何もしていない。何も出来ていない。26年生きてきて何も残せていない。何もできないまま30歳になってしまう。4つか5つ離れている「あの人」は私がしたいと思っていた正にその仕事を今現在している。じゃあお前も同じ年くらいにその仕事につければ良いじゃないか。いやそいういう問題ではない。というよりそんな事ではまず無理だ。実はこの2、3年で焦りこそすれ正直具体的な行動は最近まで全くしていなかった。昨年の夏にIMAXを観るために一人でオーストラリアへ行ったが、実はあれにはそういう思いもあっての事でもあった。オーストラリアへ行く事で自分を変えられるなんていうような甘い考えこそ無かったものの、こんな無茶が出来るのは今だけだろうという事もあり何もしないよりは良いという思いもあった。そして、実際得られるものはあったし小さな確信も得ることが出来た。

こういう個人的な事、特に自分の夢とか目標については「書いたことによって自ら縛られる」というのが嫌だったので極力さけてはいた。誰も見てないと言われればそれまでだが、それでも明文化してしまうとその結果についてのネガティブな結果をつい想像してしまうのである。だから、今回このようなことを書いたが今後「それら」について何か明確な目標を立てたり具体的な行動を起こしていくかどうかは正直分からない。趣味の範囲でそれらに関わるような事をしてはいるが、前述したようにそもそも現状を鑑みて可能性としてあり得るのかどうかという事を考えると今すぐに結論を出すことは出来ない。ただ、今回この文章を書くきっかけにもなった嫉妬心や焦り、苛立ちによって、思っていた以上に自分の中に強い思いが渦巻いていたという事が分かったという事実は今後の生活において何かしらの変化を起こしていくのかもしれない。
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